1912年ストックホルムオリンピックの日本選手団 1912年ストックホルムオリンピックの日本選手団の概要

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1912年ストックホルムオリンピックの日本選手団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 23:28 UTC 版)

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オリンピックの日本選手団
日章旗
IOCコード JPN
NOC 日本オリンピック委員会
公式サイト
1912年ストックホルムオリンピック
人員: 選手 2名、役員 2名
旗手: 三島弥彦
メダル

0

0

0

0
夏季オリンピック日本選手団
1912192019241928193219361948195219561960196419681972197619801984198819921996200020042008201220162020
冬季オリンピック日本選手団
19281932193619481952195619601964196819721976198019841988199219941998200220062010201420182022
開会式で行進する日本選手団

日本は初のオリンピック参加となった。

概要

代表選手選考会は、国際オリムピック大会選手予選会という名称で1911年(明治44年)11月18日19日羽田運動場で開催された[1]。予選会の結果、100m・200メートル・400メートル・800メートル優勝の三島弥彦、マラソン優勝の金栗四三、マラソンで2位・3位の佐々木正清と井手伊吉[2]などが候補として残った。

参加選手は三島弥彦金栗四三の2人、役員は嘉納治五郎大森兵蔵の2名。これは日本のオリンピック選手団としては2019年現在最小の規模である。監督の大森兵蔵には妻の安仁子が同行した[3]。選手が2人だけになったのは、渡航費用を捻出できず、選手の自己負担になったからである。三島が残ったのは、実家が資産家というのも理由だった。実際に三島は、3500円を持参している(一方、資産の乏しい金栗は、兄(実次)に「田畑を売ってでも工面する」と激励されたが、在籍していた東京高等師範学校の仲間による寄付などで1500円をまかない、自己負担は300円で済んだ)[4]

入場行進時のプラカード表記は「NIPPON」であった[5]。プラカードを持つ金栗四三は「日本」と漢字表記を主張して譲らず、大森兵蔵は「JAPAN」を主張し、折衷案として嘉納治五郎が提案した「NIPPON」が採用された[6]。「NIPPON」の表記はこの大会のみで、以降のオリンピックは全て「JAPAN」となっている[7]

新橋駅の出発は1912年5月16日[8]敦賀で下車して船でロシアウラジオストクに渡り、シベリア鉄道でセントピーターズバーグ(サンクトペテルブルク)まで行き、船でストックホルムに渡った[9]。ストックホルムに着いたのは6月2日、開会式の1か月ほど前であった[10]

日本はメダル無しに終わったが、これは出場した夏季オリンピックでは唯一である[11]

種目別選手、スタッフ名簿および成績

役員

陸上競技

男子

  • 三島弥彦東京帝大
    • 100m 1次予選敗退(16組5着、11秒8、自己新[13]
    • 200m 1次予選敗退(13組4着、24秒台だったとされる[14]
    • 400m 準決勝棄権(予選は4組2着[14]
  • 金栗四三東京高師
    • 10000m 棄権(出場せず)[15]
    • マラソン 途中棄権(ただし、棄権の意思が運営者側に届いていなかったため、行方不明扱いとされ、55年後の記念式典でゴールし、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3とアナウンスされている[16]。)

  1. ^ 川本 1963, pp. 14–21.
  2. ^ マラソンは、3位までが当時の世界記録を更新する記録を残した。
  3. ^ a b 長谷川 2013, p. 93.
  4. ^ 内藤 2019, p. 51.
  5. ^ 長谷川 2013, p. 112.
  6. ^ 長谷川 2013, pp. 112–113.
  7. ^ 長谷川 2013, p. 113.
  8. ^ 長谷川 2013, pp. 92–93.
  9. ^ 長谷川 2013, pp. 94–102.
  10. ^ 長谷川 2013, pp. 103–112.
  11. ^ 冬季は複数例が存在する。
  12. ^ 長谷川 2013, p. 107.
  13. ^ 長谷川 2013, p. 115.
  14. ^ a b 長谷川 2013, p. 118.
  15. ^ 長谷川 2013, p. 116.
  16. ^ 熊本県和水町商工観光課・大河ドラマいだてん和水町推進協議会 、日本マラソンの父金栗四三ミュージアム、日本マラソンの父 金栗四三 (PDF) 、2019年9月12日閲覧。


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