高田繁
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人物
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大学時代は明治の「御大」こと監督の島岡吉郎に最も可愛がられた優等生であった。主将を務めていた時期も、鉄拳制裁を辞さないスパルタ教育で知られた島岡に一度も殴られなかったという。一方で高田自身は荒くれ者揃いで知られる浪商高出身であるからか、紳士的な外見からは想像できないほどの武闘派であった。大学の1年後輩であり”闘将”で知られる星野仙一にとって頭の上がらない人物の一人であり、とある番組では「高田さんを温厚そうに見えるなんてとんでもない。本当の高田さんを知らないだけだよ」と笑いながら語っている。
高田の芯の強さや気の強さを示すエピソードとして、1976年に巨人に移籍してきた張本勲に対して「巨人では俺の方が先輩」という理由で対等に口を利いていたことがあるという[注 5]。
近眼で、大学時代からコンタクトレンズを愛用していた。しかし目が悪いことを誰にも話しておらず、周囲の人間はもちろん、寮で同室だった星野や、キャプテン時代ほとんど行動を共にしていた島岡もそのことを知らなかった。卒業直前、何気なくコンタクトを外した高田を見た島岡から「いつからコンタクトをはめていた?」の問いに「大学1年の春からです」と答え、これを聞いた島岡は驚きのあまり座っていた椅子から転げ落ちたという。
近年ではカラフルなグローブを利用する選手も多く見られるが、1970年代後半期においては茶色のグラブ以外を使う選手はまずいなかった。そのような中で高田は青いグラブを愛用しており、アドバイザリースタッフ契約しているミズノ(当時は美津濃スポーツ)では“高田モデル”の青のグラブが大変人気があった。手袋も青いものを使用して、同時期に活躍した赤い手袋の柴田勲と対称的な人気があった。
現役時代、甘いマスクで女性の人気が高い選手であった。それを物語るエピソードとして、1993年、皇太子徳仁親王と小和田雅子の婚約がメディアで報道された際、小学生時代から雅子が高田のファンであったと紹介された。雅子は中学時代ソフトボールに熱中する少女で、高田を見たいために当時多摩川河川敷にあったジャイアンツ練習場に度々足を運んでいた[24]。その婚約報道が盛んな時期、テレビの画面では皇太子の顔のあと急に高田の顔写真が映ることもままあり、それを家のTVで見ていた高田本人は「いきなり自分の顔が出たので『な、な、なんだ?』とびっくりしました。でもほんとうにおめでとうございます」とコメントした。
注釈
- ^ 巨人でこの背番号は、高田から続く3人が連続して新人王を獲得している。ちなみに2人目は、高田が現役引退した翌1981年入団の原辰徳で、3人目は原が引退した翌1996年入団の仁志敏久である。余談だが、この背番号から新人王が出た年に巨人はリーグ優勝を達成している(高田と原の時は日本一も達成)。
- ^ 張本の入団で高田は球団にトレードを志願した。しかし長嶋に慰留され、加えて守備位置変更を要請された。
- ^ シーズン終了後に正式に監督に就任、2014年まで指揮を執った。
- ^ 認定者一覧では「髙田繁」名義になっている。
- ^ 張本は高田の出身校・浪商高の大先輩であり、また当時パ・リーグの暴れ者として知られた日本ハムの中でも特に一目置かれる存在であった。
- ^ 1985年から1996年までは公式試合130試合制、2007年から2014年までは144試合制
- ^ 開幕から5月26日まで
- ^ 辞任した5月26日時点では最下位。最終的には4位
出典
- ^ a b c 高田繁GM 退任のお知らせ 横浜DeNAベイスターズ、2018年10月11日掲載
- ^ a b “三井ゴールデングラブ賞 歴代受賞選手”. 2021年2月17日閲覧。
- ^ a b c 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ 【私の失敗(4)】高田繁、浪商エースで甲子園立てず…投手断念
- ^ a b c d 【私の失敗(5)】高田繁、御大・島岡監督のおそろしさに「こんなはずでは…」
- ^ 『明治大学野球部 - 「人間力野球」の軌跡』(ベースボール・マガジン社)P19。 ISBN 978-4583621197
- ^ 小学館『サライ』2010年10月号
- ^ “「巨人は一番、行きたくなかった」“V9戦士”高田繁(78)が語る22歳の新人時代「夏は昼から炎天下の後楽園で…」「(二軍降格は)土井さんが悪い」”. Number Web. 文藝春秋 (2024年5月15日). 2024年5月17日閲覧。
- ^ 高田繁、長嶋監督に呼び出され…トレード覚悟
- ^ 【11月15日】1975年(昭50) サード・高田繁デビュー 長嶋監督「去年までのサードよりうまい」
- ^ スポーツニッポン2016年7月30日付連載記事「我が道」より、村上談
- ^ “糸井、涙の引退 超人は最後まで超人打 「甲子園、ありがとう」19年の現役生活に幕”. デイリースポーツ online (2022年9月22日). 2022年10月26日閲覧。
- ^ ヤクルト・高田監督が成績不振を理由に辞任 - サンケイスポーツ 2010年5月26日
- ^ 「やめちまえ」少年ファンの声に戦意喪失 ヤクルト・高田監督 - 朝日新聞 2010年5月26日
- ^ 高田繁、朝の4時過ぎまで眠れなかった監督時代 - サンスポ 2015年4月23日
- ^ “高田GM就任を発表…横浜DeNA”. スポーツ報知. (2011年12月5日)[リンク切れ]
- ^ “横浜が工藤氏の監督起用断念”. 毎日新聞. (2011年12月5日)
- ^ 「【ありがとう!中畑清!】#5 横浜DeNAにいた4年間は楽しかった!珍監督就任秘話から横浜への思いを赤裸々に語ります」デーブ大久保チャンネル、2020年7月16日。YouTubeより。
- ^ 『プロ野球ロワイヤル』配信直前記念!プロデューサー馬場保仁氏 × 横浜DeNAベイスターズGM高田繁氏インタビュー【前編】
- ^ 野球太郎 No.025 2017ドラフト総決算&2018大展望号 (廣済堂ベストムック 375)、廣済堂出版、52頁
- ^ “学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者”. 公益財団法人日本学生野球協会. 2022年9月29日閲覧。
- ^ どれだけ分かる? ミスター、ムース、ハンカチ王子…球界を彩った"ニックネーム"の歴史 | Full-Count
- ^ 文春Numberビデオ「巧守好走列伝」
- ^ 2020東京五輪始球式で「胸がいっぱいに」“推し“は高田繁選手~皇后雅子さまソフトボール秘話~ フジニュースネットワーク 2021年7月27日
- ^ “【中日】大島洋平、1試合6安打!セ・リーグタイ記録!球団史上初の快挙 なおドラゴンズは…”. スポーツ報知. (2022年8月3日) 2022年8月4日閲覧。
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