飯塚将光 飯塚将光の概要

飯塚将光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/26 03:00 UTC 版)

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飯塚将光
個人情報
フルネーム いいづか まさみつ
国籍 日本
生誕 (1950-02-07) 1950年2月7日
栃木県
死去 2014年10月11日(2014-10-11)(64歳)
スポーツ
競技 オートレース
クラブ 船橋オートレース場

選手データ

  • 戦歴
    • 通算勝利数:1382勝
    • 通算優勝回数:142回(史上第3位)
    • グレードレース(SG,GI,GII)優勝回数:45回(片平巧とともに史上第3位タイ)
    • 全国区レース優勝回数:10回(SG9回・全日本選抜オートレース1回)
    • SG優勝回数:9回
    • GI優勝回数:28回(史上最多)
    • GII優勝回数:8回
    • 賞金王:9回(77〜78、82〜87、89の各年。史上最多)
    • 年間最多優勝選手:7回
    • 年間最多勝利選手:1回
    • 通算勝利数:1382勝
  • 受賞歴
    • 最優秀選手賞:4回(77・82・84・85年)
    • 特別賞:7回(高橋貢とともに史上最多タイ)

生い立ち

栃木県佐野市生まれ。飯塚が小学生の頃、実家は大井オートレース場の近くで自転車店を営でいた。近所に大井オートの選手が住んでいて、オートレースの話を聞いたり、オートレース選手に憧れていた。商売柄、自転車やバイクに幼少期から触れており、父親の運転するバイクの後ろに乗り仕入れへ出掛けたり、河原で運転させてもらったりしたという。14歳の時、船橋オートレース場で初めてダートレースを見て衝撃を受け、その場で選手になることを決意する。1970年財団法人日本小型自動車振興会第9期選手候補生合格。1971年船橋オートレース場にてデビュー。

※ 前述の栃木県佐野市は飯塚の父親の故郷。飯塚の出生地ではないが父親の故郷への思い入れが強く、晩年まで栃木県佐野市出身をプロフィールに使用していると本人が語っている。

ミスター・オート

飯塚将光は「ミスター・オート」と讃えられた。オートの神様広瀬登喜夫とともに、オートレースを語る上で避けることの出来ない人物である。

飯塚はトライアンフ(以下"トラ"と表記)がオートレースで席巻していた時代に最も強い選手として君臨した。トラは整備が大変複雑で、乗りこなすのもまた難しいというエンジンだった。実際、同期の篠崎実(9期、川口オートレース場所属)はトラには適応出来ず、メグロ二気筒へ乗り換えた。当時徒弟制だったオートレースで規定の乗車年月を超えても師匠の許しが出ないと大排気量のエンジンへ乗り換えは叶わなかったが、飯塚は3級車3年→2級車1年→1級車単気筒1年と最短ペースでトラに乗り替わったのである。そして、まるでトラの細かい癖までも熟知しているかのような整備と、それまで誰も試みなかったトラによる「外角走法」で、飯塚は船橋はおろか、全国でも最強と言われる程の選手へと進化したのである。

飯塚のトラ時代の競走車呼名としては、「ホージョウ」が代表的であった。この「ホージョウ」という呼名は、元は飯塚の師匠であった須之内哲也(2期。元船橋オートレース場所属)選手が「ホウジョウ」という呼名で使用していたもので、落車事故により半身不随の重傷を負い引退を余儀なくされた師匠からその「ホウジョウ」号を譲り受けたのがそもそもの始まりである。それ以前は「ガーファンクル」や「キャロル」という車名があったが、飯塚自身はこの北条早雲に代表される北条氏の「北条」に由来した「ホージョウ」という名を好み(当初は北条氏のこととは知らなかった)、「ベルホージョウ」や「ホージョウ25」というふうにアレンジを加えて使用していた。

フジ~セア時代のミスター

英国トライアンフ社の倒産、1983年の工場閉鎖により、1980年代後半トライアンフの部品はイギリスまで出向かないといけない程入手困難となった。そして、その間隙を縫ってデビューしたのがフジ二気筒である。飯塚は誰よりも早くこのフジニ気筒を導入する。トラへのこだわりが全く無かった訳ではないが、後の「フジでなければ勝てない」という状況に対応する為、苦渋の選択でもあったとも言える。

フジへ乗り替えた飯塚は、当時の特別競走(現在のSG競走)の三大タイトルを全て制覇するなど、トラ時代程ではないが、素晴らしい活躍を見せる。1993年エンジンがセアへ統一されてからは一度もSGを優勝していない。セアは若手選手でも順応しやすいエンジンで、オートレースで勝つための要素が次第に「強さ」から「速さ」へ移行してく過渡期でもあった。この高速化の流れに飲み込まれるかの様に、飯塚の強靭な走りは影を潜めてしまう。セア乗り換え後は往年の絶対的強さには及ばないものの存在感を発揮することは多く、時折往年の強さの片鱗を見せることがあり、第9回G1全国地区対抗では当時圧倒的な強さを誇った片平には敗れたものの準優勝、2006年には第25回オールスターオートレース優出(優勝戦は失格)等の戦績を残した。


  1. ^ 船橋オート 飯塚将光選手 引退レース [1]
  2. ^ 日本選手権最多の6度優勝“ミスターオート”飯塚将光が引退 スポーツニッポン 2013年6月11日閲覧
  3. ^ ミスターオート飯塚将光氏が死去 胃がん、64歳 中日新聞 2014年10月12日






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