青木亮人
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論文
特筆すべき研究内容
明治期の正岡子規研究
明治期の正岡子規一派の「写生」作品のどの点が斬新だったかを、作品分析で初めて解明した。従来は、「子規派=新/他の俳諧宗匠=旧」という前提で子規派の革新運動を評価したため、同時代の宗匠作品のどの点が古く、子規派作品の何が新しかったかは不明のままだった。そのため、古いとされた俳諧宗匠側から子規派を捉えることで、子規派作品のどの点が斬新だったかを具体的に解釈した結果、子規派には前例のない型破りな作品が多く、乱暴ともいえるほどの新奇な発想に満ちていたために革新的だったことを両者の比較分析から導き出した[29][30]。同時に、定説では明治期の俳諧宗匠は「旧派」と否定的に捉えられがちだが、その作風や文化には江戸俳諧の豊饒さが継承されていた可能性が高いことも指摘している[31]。
正岡子規が「赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐」を「印象明瞭」と評し、新時代の「写生」句と称賛したのは有名だが、「赤い椿」句のどの点が斬新だったかを同時代の宗匠作品と比較分析しながら初めて解明した[32]。
定説では、江戸時代の与謝蕪村を近代に入って最初に発見したのは正岡子規一派とされるが、子規派以前に多くの俳諧宗匠が蕪村にすでに言及しており、また蕪村句を真似た句群も散見されることを、当時の資料群を紹介しながら初めて指摘した[33][34]。その上で、子規派の蕪村発見の意義を解明したのも初である[33][34]。
昭和期の山口誓子研究
定説では、山口誓子はエイゼンシュテインのモンタージュ映画『戦艦ポチョムキン』等に示唆を得て「夏草に汽罐車の車輪来て止る」(戦前作)といった「二物衝撃」を実践したとされるが、戦前の誓子は「戦艦ポチョムキン」を観ておらず、むしろエイゼンシュテイン以外のモンタージュ映画や前衛映画に強い影響を受けていたことを初めて解明した[35][36]。同時に、誓子が「夏草に汽罐車の車輪来て止る」等の連作(俳句を複数並べて詩のように一作品と見なす作風)における「モンタージュ」は、定説の「二物衝撃」と全く異なる意味で誓子が想定していたことも初めて解明している[35][37]。同時に、誓子は同時代の前衛映画以外に新興写真と呼ばれる斬新な写真も好んでおり、それが誓子作品に強い影響を与えていることも初めて指摘した[35]。
定説では、山口誓子の「スケート」連作は大阪中之島の朝日ビル屋上のスケート場であり、都市モダニズムの華やかさが強調されてきた。しかし、誓子流の「カメラの眼」は、朝日ビル屋上の華麗な都会生活と同時に貧相な設備や現実も捉えており、それが俳句における「写生」の実践でもあったことを初めて解明した[38]。
説では、山口誓子は新興俳句に大きな影響を及ぼしたとされるが、その影響を実際に作品分析を通して証明した例はなかった。そのため、「京大俳句」関係者が誓子の「スケート」連作発表直後から作風を真似て詠んでいたことに着目し、彼らが誓子作品をなぞるように詠んだことをむしろ誇示した点に新興俳句の特徴があったことを初めて解明した[39][40]。加えて、誓子作品の文体が模倣しやすい型を有した点も誓子人気の一因だったことを併せて指摘している[39]。
その他の俳人
自由律俳人の尾崎放哉は東京帝大法学部出身であり、法学部長の穂積陳重(宇和島藩重臣の家柄)は恩師にあたる。また、陳重の長男である穂積重遠(法学者、後の東京帝大法学部長)とは同窓だった。放哉は卒業後、恩師の穂積陳重に再就職の相談をしており、穂積の推薦で保険業界に就職した。その後、放哉が酒癖の悪さや短慮で退社した後、彼を心配する友人たちが就職の世話をした際に一役買ったのは穂積重遠である。放哉は穂積親子に二度にわたり就職の世話をしてもらっており、また放哉が亡くなった日は恩師の穂積陳重と同じ1926(大正15)年4月7日だったことを初めて指摘しながら論にまとめた[41]。
人物
歴史や小説、音楽、絵画、映画、美術等が好きで、エッセイやインタビューではそれらの個人的な体験談を折に触れて紹介している。高校時代にレッド・ツェッペリンの"Rain Song"(『狂熱のライヴ』版)を繰り返し聞きながらエミール・ゾラの小説を読みふけっていると、以後は"Rain Song"が耳に入るやゾラの作品世界を瞬時に思い出すようになってしまい、両者の奇妙な連想に困惑したという[42]。
芸術家の大竹伸朗のファンで、愛媛ゆかりの文学や文化について綴った『愛媛 文学の面影』三部作で最もページ数が多いのは南予編の大竹についての章である[43](大竹は宇和島在住)。また、大竹の祖母である井上てる女は本業のかたわら俳句を趣味とし、俳句結社「万緑」(中村草田男主宰)同人だった。そのてる女の俳句作品と大竹の経歴や作品を関連させて綴ったのは『愛媛 文学の面影』南予編が嚆矢である[44]。2023年に愛媛県美術館で開催された「大竹伸朗展」では、愛媛新聞の連載企画「ワタシの大竹伸朗論」で漫画家の和田ラジヲ氏、作家の高橋久美子氏とともに寄稿した[45]。
- ^ 正確には愛媛大学独自の「特任教授」。学外の研究活動全般では教授号を名乗り、学内では教授相当の業務を担当するが、給与は准教授相当という称号。国立大学法人愛媛大学特任教授等称号付与規程を参照[1]。
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