陪審定理 背景

陪審定理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 04:42 UTC 版)

背景

この理論は1785年にニコラ・ド・コンドルセ(1743-1794)「多数決の蓋然性に対する解析の応用試論」によって発表された。背景には1784年にジャン=シャルル・ド・ボルダ(1733-1799)が単記投票の問題点と改善案に関する論文を公表しており、コンドルセ「試論」はボルダの論文を踏まえたものであった[1]。数学者であったコンドルセは当時発展しつつあった人口統計・保険数学などの試みと自身の論考を統合して「社会数学」(mathématique sociale)という学問分野を作ろうと試みたのであったが、18世紀の科学史においては彼のプロジェクトは未完であり、19世紀半ば以降とりわけ批判に晒され一旦は忘れられるものとなった[2]

コンドルセの議論を整理して「陪審定理」と名付けたのはダンカン・ブラック(1908-1991)であり、1958年の著書「委員会と選挙の理論」の中でそう名付けられた。「陪審」と名付けられ現代ではそう定着しているが、コンドルセが考えていたのは陪審ではなく通常の投票であった[3]

コンドルセ「試論」はジャン=ジャック・ルソー「社会契約論」(1762年)を強く意識していたのは明らかであるが、当時「社会契約論」は禁書指定を受けており、「試論」においてコンドルセはルソーについて明示的に言及しなかったのだと考えられている[4]。ルソーとの強い繋がりを「発見」し指摘したのは現代の政治学者バーナード・グロフマンとスコット・フェルドであり、「ルソーの一般意思-コンドルセ流の観点」[5]においてルソーとコンドルセについて比較検証し、コンドルセの投票研究の思想的な源流がルソーにあると論じた[4]

社会契約論に於いてルソーは、国家の主権の根拠となる一般意志の概念を提唱した。しかしルソーは、特殊意思のうち多数決により合意を得たものを「全体意志」とし、すべての人が同意できすべての人の利益が実現する「一般意志」と区別したが、国家にとって絶対の真理となる「一般意志」を決定する手続きについては明確にしなかった。

そこでコンドルセは、政治思想とは無関係の理論体系である確率論を用いる事で、多数決の信頼性を定量的に見積もろうとした。


  1. ^ 隠岐さや香「「社会数学」の生成・消滅と部分的再生」『学術の動向』第22巻第2号、日本学術協力財団、2017年、2_28-2_31、CRID 1390001205066952832doi:10.5363/tits.22.2_28ISSN 13423363  p.28
  2. ^ 隠岐さや香 2017, p. 28.
  3. ^ 坂井豊貴『多数決を疑う : 社会的選択理論とは何か』岩波書店〈岩波新書〉、2015年。ISBN 978-4-00-431541-4国立国会図書館書誌ID:026269795https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I026269795 
  4. ^ a b 坂井豊貴 2015.
  5. ^ アメリカン・ポリティカル・サイエンス・レビュー、1988年





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