鎌倉幕府 都市造営

鎌倉幕府

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/04 16:13 UTC 版)

都市造営

鎌倉入りと都市造営は、それまで京都の公家たちに従属していた武士の歴史として画期的な意味を持つ。まず、頼朝は居館の建築と、鶴岡八幡宮の整備を行う。鶴岡宮は地勢的にも精神的な位置においても都市鎌倉の中心を占めるものであり、京都における内裏に匹敵するもので、中央から下向した天台宗真言宗の僧が、供僧として運営の主導権を握っていた。そこでは放生会といった年中行事が整備される一方、それに際し奉納される流鏑馬笠懸は武家社会を代表する重要行事となった。

新造の武家の都を飾る建設は続き、源義朝菩提勝長寿院や、平泉中尊寺の二階大堂を模した奥州合戦や数多の戦を供養源義経藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊英霊をしずめ、冥福を祈るための寺院永福寺、13世紀に入ると寿福寺東勝寺といった禅宗の寺が次々に建立された。禅宗は特に保護されて、北鎌倉には渡来僧を開山とする建長寺円覚寺などの巨刹が偉容を示す[17]

存立原理と幕府機構

御恩と奉公

鎌倉幕府の存立は、武士、特に関東武士団を基盤としていた。これらの武士は、「鎌倉殿」( = 将軍)の家人となることで、鎌倉幕府の構成員となった。鎌倉殿の家人になった武士は御家人と呼ばれた。鎌倉殿と御家人の主従関係は、御恩と奉公と呼ばれる互恵関係によって保持された、この制度を御家人制度と呼ぶ。

御恩
鎌倉殿が御家人の所領支配を保障し、又は新たな土地給与を行うことを言う。「御恩」には所領支配を保障する本領安堵(ほんりょうあんど)と新たな土地給与である新恩給与(しんおんきゅうよ)の2種類があった。いずれも御家人を地頭へ任命するという形で行われた。
奉公
御家人が鎌倉殿に対して負担する軍役・経済負担などを言う。具体的には、「いざ鎌倉」などに代表される緊急時の軍役、内裏の警護である京都大番役、幕府の警護である鎌倉番役、後の元寇の頃には異国警固番役長門警固番役という形で行われ、また関東御公事と言われる経済負担もあった。

以上のように、相互に利益を享受することで、両者は結ばれていた。主従の契約は、御家人が鎌倉殿へ見参した際の名簿差出(みょうぶさしだし)によって行われ、幕府は御家人名簿により御家人を管理した。

経済基盤

鎌倉幕府は、以下のような独自の経済基盤を有していた。

職制

征夷大将軍鎌倉殿
鎌倉幕府の長。初代頼朝の時代は武家の棟梁と見なされていたが、源氏将軍が3代で途絶えると、朝廷から摂関家(2代)および皇族(4代)を迎え入れるようになり形骸化していく。
執権
鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の補佐役。次第に将軍の権限を吸収していき、事実上の鎌倉幕府のトップとなる。北条氏が世襲したが、後に北条得宗家の当主が執権職を一族の人物に譲った後も得宗家当主が実権を掌握し続けるようになった。
連署
執権に次ぐ、もしくは執権に並ぶ役職。
評定衆
幕府の政策意思決定の最高合議機関。頼朝死後の重臣合議の幕府運営体制である「十三人の合議制」が発展して成立。得宗専制が進むと軽視されるようになる。
寄合衆
元々は得宗家当主の私的な会議であったが、得宗専制が進むと実質的に評定衆に代わる最高意思決定機関となった。
引付衆
幕府へ提訴された訴訟の審理を担当した。審理結果は評定衆へ上申され、評定衆が裁定した。
侍所
御家人の統率を所管した。
政所
頼朝の家政機関に端を発し、幕府の一般政務・財政を所管した。
問注所
幕府へ提訴される訴訟に関する実務を担当した。
守護
地頭
京都守護六波羅探題
元は朝廷との連絡調整が任務だったが、承久の乱以後の六波羅探題は、朝廷の監視・西国御家人の統率が任務となった。
鎮西奉行鎮西探題
詳細は鎮西奉行、鎮西探題を参照。
奥州総奉行
蝦夷沙汰職・蝦夷代官

幕府(御所)所在地の変遷

名称 期間 開設・移設者
大蔵幕府 1180年(治承4年) ~ 1225年 源頼朝
宇都(津)宮辻子幕府 1225年(嘉禄元年) ~ 1236年 執権北条泰時
連署北条時房
若宮大路幕府 1236年(嘉禎2年) ~ 1333年 執権北条泰時

[18]

幕府についての議論

当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷公家関東と呼び、武士からは鎌倉殿、一般からは武家と称されていた。「吾妻鏡」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念である。武家政権を幕府と称したのは江戸時代後半、幕末になってからのことであり、鎌倉幕府という概念が登場したのは、1887年明治20年)以降とされる[19]。以上の理由から、鎌倉幕府の統治機構としての概念、あるいは成立時期というのも後世の、近代歴史学上のとらえ方の問題であり、一応の通説があるとはいえ、統一された見解がないのが現状である。歴史学者の林屋辰三郎は「そもそも幕府というものの本質をいずれに置くのか、歴史学上未確定である」と述べている。また、同じ歴史学者の岩田慎平は鎌倉幕府は全国の武士は統率できても、全国の統治は完成できなかったことを指摘し、特に皇位継承への関与が受動的(朝廷からの軍事的挑戦を受けた結果、もしくは朝廷からの要請に基づく結果)であることを指摘し、「政権」としては平氏政権よりも後退して、かつ軍事・警察面以外の多くの分野で未だに朝廷が国政の主導権を握っている以上、鎌倉幕府を本当に武家「政権」と呼べるのか再検討すべきではないか?と提言している[20]

現在、鎌倉幕府の成立年については、頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)、事実上、東国の支配権を承認する寿永二年の宣旨が下された寿永2年(1183年)、公文所及び問注所を開設した元暦元年(1184年)、守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185年)、日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)、征夷大将軍に任命された建久3年(1192年)など様々な意見が存在する[注釈 7]

21世紀に入って学校教育の場で、鎌倉幕府の成立年が建久3年(1192年)から文治元年(1185年)に変更されるようになったが、第二次世界大戦前に通説扱いされていたのは文治元年(1185年)説であり、『大日本史料』や『史料綜覧』も同年以降が「鎌倉幕府の成立 = 鎌倉時代の始まり」とみなされ、『平安遺文』と『鎌倉遺文』の区切りも同年が採用されている。その一方で、文治の勅許が守護・地頭の任命を許可したものとする見方を否定する研究者もおり、その立場からは同勅許を前提とした文治元年(1185年)説は成立しないとされている。同様に他の説に関しても異論が出されている(日本国総守護地頭の実在性など)。歴史学者の川合康は、鎌倉幕府は東国における反乱軍勢力から、朝廷に承認されて平家一門や同族との内乱に勝利して日本全国に勢力を広げ、やがて鎌倉殿を頂点とした独自の権力機構を確立するまで少なくても3段階の過程を経て成立したもので、それを特定の1つの時点を切り取って「鎌倉幕府の成立」として論じることは困難であると指摘している[21]。これらの議論を踏まえ、帝国書院などの検定教科書においては、鎌倉幕府の成立は段階を踏んで整えられ、成立年についても1192年に「名実ともに『完成した』」という表記を採用している[22]


注釈

  1. ^ ただし近年では逆に、武士の起源を有力農民ではなくて貴族の側とする見解が主流となった。詳細は『軍事貴族』『武士#「職能」武士の起源』の項目を参照。
  2. ^ 『百錬抄』寿永二年十月二十二日条によれば「十月十四日、(中略)東海・東山諸国の年貢、神社仏寺ならびに王臣家領の庄園、元の如く領家に随うべきの由、宣旨を下さる。頼朝の申し行いに依るところ也。」と記されている。『百錬抄』寿永二年十月二十日条参照。
  3. ^ 『吾妻鏡』には文治元年(1185年)10月18日以降の記述によれば「廿八、丁未、補任諸国平均守護地頭、不論権門勢家庄公、可充 課兵粮米段別五升之由、今夜、北条殿謁申藤中納言経房卿云々」とあるように、数度に渡り北条時政を通じて荘園公領を問わず反別五升の兵粮米の徴収権を与えられることを奏請した。さらに、九条兼実の日記『玉葉』によれば「二十九日、戊申、北条殿申さるるところの諸国守護地頭兵粮米の事、早く申請に任せて御沙汰あるべきの由、仰せ下さるるの間、帥中納言勅を北条殿に伝えらると云々」と記されている。『吾妻鏡』文治元年十二月六日条、『玉葉』『吉記』文治元年十二月二十七日条。参照。
  4. ^ もっとも、北村拓 著「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」、今江廣道 編 『中世の史料と制度』続群書類従完成会、2005年、137 - 194頁。 のように、征夷大将軍はこの時代には完全に名誉職化しており、何らかの権限を付与されたものではないとする説もある。
  5. ^ 足利尊氏寄進状建武2年(1335年3月28日付(『神奈川県史』資料編3所収)[16]
  6. ^ 「将軍足利尊氏寄進状案」「将軍足利尊氏御教書案」(『神奈川県史』資料編3所収)、「惟賢灌頂授与記」(『鎌倉市史』史料編1所収)[16]
  7. ^ これら学説については井上光貞前掲書、国史大辞典編集委員会編前掲『国史大辞典 3』などに詳しい。

出典

  1. ^ 阿部猛; 佐藤和彦 編 『人物でたどる日本荘園史』東京堂出版、1990年。 
  2. ^ 高橋富雄 『征夷大将軍 もう一つの国家主権』中央公論社、1987年、73-74頁。 
  3. ^ 菱沼一憲 『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年、161頁。 
  4. ^ 細川重男 『鎌倉幕府の滅亡』吉川弘文館、2011年、132-133頁。 
  5. ^ 永井 2009, p. 53.
  6. ^ a b 永井 2009, pp. 3–24.
  7. ^ a b c 河内 2007, pp. 304–347.
  8. ^ 峰岸 2005, pp. 37–38.
  9. ^ 峰岸 2005, p. 57.
  10. ^ 峰岸 2005, p. 62.
  11. ^ 峰岸 2005, p. 63.
  12. ^ 永井 2003, pp. 148・150.
  13. ^ 『太平記』巻十「大仏貞直並金沢貞将討死事」
  14. ^ 『太平記』巻十「信忍自害事」
  15. ^ 『太平記』巻十「高時並一門以下於東勝寺自害事」
  16. ^ a b c d 「神奈川県:鎌倉市 > 小町村 > 宝戒寺」 『日本歴史地名大系』平凡社、2006年。 
  17. ^ 佐藤弘夫 編 『概説 日本思想史』ミネルヴァ書房、2005年。 
  18. ^ 鎌倉市. “鎌倉市のみどころ「大倉幕府」 かまくら GreenNet” (日本語). 2009年10月6日閲覧。 [リンク切れ]
  19. ^ 国史大辞典編集委員会編 編 『国史大辞典 3』吉川弘文館、1983年、549頁。 
  20. ^ 岩田慎平「武家政権について」元木泰雄 編『日本中世の政治と制度』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-02966-7 P316 - 330.
  21. ^ 川合康「鎌倉幕府の成立時期を再検討する」(初出:『じっきょう地歴・公民科資料』76号(2013年)/所収:川合『院政期武士社会と鎌倉幕府』(吉川弘文館、2019年)) 2019年、P276 - 288.
  22. ^ 帝国書院 | 社会科Q & A — 歴史”. www.teikokushoin.co.jp. 2019年11月4日閲覧。
  23. ^ 稲葉継陽 2012, p. 54.
  24. ^ 佐藤 1976.
  25. ^ 佐藤 1976, p. 5.
  26. ^ 佐藤進一 『日本の中世国家』 岩波現代文庫、2007年3月、66頁。
  27. ^ 村井章介「佐藤進一著『日本の中世国家』」『史学雑誌』第93巻第4号、史学会、1984年、 95-96(p.510-521)、 doi:10.24471/shigaku.93.4_510ISSN 0018-2478NAID 110002368296
  28. ^ 吉田孝、上横手雅敬 「(書評)佐藤進一著「日本の中世国家」」『法制史研究』1984巻34号 1984年、177頁。
  29. ^ 奥山研司 「高校日本史における中世史像の変革 : 地頭制の取り扱いを通じて」『社会科研究』38巻 全国社会科教育学会、1990年、93頁。
  30. ^ 平雅行 「中世史像の変革と鎌倉仏教(1)」『じっきょう 地歴・公民科資料』No.65 実教出版、2007年10月、3-4頁。(2020年1月10日閲覧)
  31. ^ 安藤豊「歴史学習「鎌倉時代」に関する内容構成フレームの検討 : 中学校における中世史(「鎌倉時代」)学習内容再構築のための基礎的考察(その1)」『北海道教育大学紀要 教育科学編』第59巻第1号、北海道教育大学、2008年8月、 40(p.39-42)、 ISSN 13442554NAID 110006825912
  32. ^ 稲葉継陽 2012, p. 56.
  33. ^ 佐々木宗雄『日本中世国制史論』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02946-9 P13・150-151・182.
  34. ^ 『本郷和人 日本史の法則 kindle版 位置NO.2898/3041』河出書房新社、2021年。 
  35. ^ 『本郷和人 日本史の法則 kindle版 位置NO.2761/3041』河出書房新社、2021年。 
  36. ^ a b c d e f g h i 永井 2009, pp. 40–42.
  37. ^ 永井 2009, pp. 48–52.
  38. ^ 永井 2009, pp. 53–56.
  39. ^ a b 永井 2009, p. 42.





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