覚園寺 境内

覚園寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 21:49 UTC 版)

境内

鎌倉の地形の特色である尾根と尾根の間に深く入り込んだ谷(やつ)が覚園寺の境内となっている。覚園寺のある谷は薬師堂ヶ谷と呼ばれる。鎌倉宮(大塔宮)から覚園寺へ向かう道の途中の、庚申塔の立っているところがかつての覚園寺総門跡であり、その左手の谷に大楽寺があった[3]。境内には樹木が多く、自然環境が良好に保持されている。

入口正面には愛染堂が建ち、その脇の参道を進むと薬師堂、地蔵堂、鎌倉市手広から移築した旧内海(うつみ)家住宅などがある。このほか、境内奥には開山智海心慧と2世大燈源智の墓塔(ともに重要文化財)、鎌倉十井の一である「棟立の井」[4]などがあるが、これらは非公開である。覚園寺の裏山である鷲峰山の山頂付近の谷合には、「百八やぐら」と呼ばれる中世の横穴墓群があり、前述の総門跡の庚申塔の右手の細い道が鷲峰山への登り口になる。

愛染堂

文保元年(1317年二階堂行朝開基の寺院、明治初年に廃寺となった大楽寺に所属していた仏堂。本尊の木造愛染明王坐像のほか、鉄造不動明王坐像、木造阿閦如来(あしゅくにょらい)坐像(各鎌倉時代、いずれも大楽寺の旧仏)などを安置する。

薬師堂(本堂)

寄棟造、茅葺き、方五間(柱間が正面・側面ともに5つ)の仏堂。覚園寺は禅宗寺院ではないが、薬師堂の建築様式は禅宗様である。堂正面は中央3間を花頭枠付きの引戸とする。組物を詰組(柱上だけでなく柱間にも組物を密に配置する)とし、柱を礎盤と粽(ちまき)付きの円柱とする点なども禅宗様の特色である。ただし、内部は一般的な禅宗仏殿のように石敷きとはせず土間である。天井は中央の方三間の身舎(もや)部分を鏡天井、周囲の一間幅の庇部分を天井を張らない化粧屋根裏とする。この堂の前身堂は文和3年(1354年)、足利尊氏によって建立されたものであったが、江戸時代の元禄2年(1689年)に古材を再用しつつ改築されている。現在の堂にも前身堂の部材が多数使われ、天井裏にも前身堂の材が残されている。これらを調査した結果、尊氏建立当時の本堂は現在より平面、高さともに規模が大きく、屋根も裳階付きであったことが判明している。堂内の梁牌(りょうはい、梁に取り付けた札)には足利尊氏と当時の住持であった朴艾思淳(ぼくがいしじゅん)の自筆の銘がある。天井画は江戸時代のもので、狩野典信の筆である。堂内には禅宗様の須弥壇を設け、本尊薬師三尊像のほか、十二神将像、阿弥陀如来坐像(鎌倉市二階堂にあった廃寺理智光寺の旧本尊)、伽藍神像などを安置する。[5]

  • 木造薬師三尊坐像(重要文化財) – 当寺の本尊。三尊とも坐像で、寄木造、玉眼。各像の蓮華座の左右に裳裾を長く垂らす点などに宋風の様式がみられる。像高は中尊薬師如来が181.3センチ、脇侍の日光菩薩・月光(がっこう)菩薩がそれぞれ149.4センチと150.0センチ。中尊は一般的な施無畏与願印(右手を挙げ、左手を下げる)ではなく、法界定印(腹前で両手を組む)の掌上に薬壺を乗せる。両脇侍像は脚を崩して安坐した姿に表す。がっしりした体躯の中尊像と女性的な顔立ちの両脇侍像とは作風が異なっている。中尊像については、頭部は鎌倉時代、体部は南北朝~室町時代の作と推定されている。両脇侍のうち日光菩薩像は頭部内面の墨書銘から応永29年(1422年)、仏師朝祐の作であることが分かり、月光(がっこう)菩薩像も日光菩薩像と同時期・同人の作と推定される。[6]
  • 木造十二神将立像(重要文化財) – 像高は最大の亥神像が189.7センチ、最小の戌神像が152.6センチ。午神像の像内に応永8年(1401年)法橋朝祐の銘があり、未神、申神、酉神、亥神の各像にはそれぞれ応永15・16・17・18年(1408 – 1411年)の像内銘がある。これらの銘文により、この十二神将像は、同じ堂内の日光・月光菩薩像の作者でもある仏師朝祐が、1年に1体ずつ、12年をかけて造像したものであることがわかる。[7]

地蔵堂

愛染堂背後に位置する小堂。本尊は黒地蔵の通称がある木造地蔵菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)である。

旧内海家住宅

鎌倉市手広にあった江戸時代名主の住宅で、1981年に覚園寺に移築された。寄棟造、茅葺で、墨書から宝永3年(1706年)の建築と判明する。内部は左手に広い土間(ニワ)を設け、床上部は下手が板敷のヒロマとダイドコロ、上手は畳敷きの2室(入側、オク)とナンドからなる。[8]

開山塔・大燈塔

境内奥の墓所に並んで建つ2基の石造宝篋印塔。開山塔は開山の智海心慧の墓塔、大燈塔は2世大燈源智の墓塔で、2基とも正慶元年(1332年)の建立。1965年に行われた解体修理時に、2基の塔内から蔵骨器等の納置品が発見された。このうち、智海心慧の蔵骨器に用いられていた黄釉草葉文壺は古瀬戸の優品であり、製作年代の下限が石塔の建立時である1332年と特定できることから、陶磁史上にも貴重な遺品である[9]。開山塔・大燈塔ともに非公開。


注釈

  1. ^ 岩波写真文庫復刻ワイド版『鎌倉 1950』に、1950年頃の覚園寺の写真が掲載されており、当時は寺内がかなり荒廃していたことが分かる。
  2. ^ この種の三尊像の、文化財としての名称は「〇〇如来及両脇侍像」と表記するのが通例だが、本三尊像については指定名称が「薬師如来及日光菩薩・月光菩薩坐像」となっている。

出典

  1. ^ a b c d 新編鎌倉志 1915, p. 25.
  2. ^ 新編相模国風土記稿 二階堂村 覚園寺.
  3. ^ a b 『鎌倉歴史散策』、p.40
  4. ^ 新編鎌倉志 1915, p. 26.
  5. ^ 『覚園寺 開山智海心慧七百年忌記念』、pp.108 – 109;『関東古寺の仏像』、p.94;『かたちの美 やさしい古建築の味わい方』、pp.72 – 73
  6. ^ 『覚園寺 開山智海心慧七百年忌記念』、p.20;『関東古寺の仏像』、pp.94 – 96
  7. ^ 『覚園寺 開山智海心慧七百年忌記念』、p.22;『月刊文化財』501号、pp.12 – 15
  8. ^ 『覚園寺 開山智海心慧七百年忌記念』、p.110;『かたちの美 やさしい古建築の味わい方』、p.73
  9. ^ 『覚園寺 開山智海心慧七百年忌記念』、pp.92, 104, 106






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