薩埵峠の戦い (戦国時代)
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第二次合戦
永禄12年1月18日(1569年2月3日)から同年4月20日(同年5月6日)にかけて行われた戦いを「第二次合戦」と称する。
北条氏康は嫡男である北条氏政に命じて4万5千の兵を率いて小田原城を出発させ、年が変わった永禄12年1月5日には伊豆三島に入った。氏政は伊豆水軍を掛川城に派遣して援軍を送らせ、自身は陸路駿府に向かった。これを知った武田軍は先の今川軍と同様に1万8千の兵で薩埵峠を固め、両軍がにらみ合う形となった。
武田信玄は常陸の佐竹義重や下総の簗田晴助などに北条領攻撃を要請し、一方今川氏真や北条氏康も越後の上杉謙信に武田領信濃を攻撃するように要請した。2月には武田軍が今川方の大宮城に攻撃を仕掛けたものの北条の援軍などもあり敗退、3月には兵糧補給の問題が発生した。両者は本格的な戦いに突入しないままに3ヶ月の間睨み合いを続けた後、4月、武田信玄は穴山信君を江尻城に残して甲斐に兵を撤退させた(この戦いでは米倉晴継らが戦死した)。その後北条氏政も幾つかの城を傘下に収めた後、相模に兵を撤退させ、徳川方との交渉を開始する。
武田氏と北条氏の戦いは引き分けに終わったものの、掛川城における徳川家康と今川氏真の籠城戦が、永禄12年(1569年)5月17日北条氏の仲介によって開城となり、北条氏と徳川氏は同盟交渉を開始。これに対抗して武田方も北条氏を牽制した後に大宮城を攻略し、今川方の勢力を掃討するなど、戦況は周辺諸大名を巻き込みながら新たな展開を迎えることになる。
参考文献
- 『戦国合戦大事典 3』(新人物往来社、1989年) ISBN 978-4-404-01629-4
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