華族 身分

華族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/01 20:42 UTC 版)

身分

爵位を有するのは家督を有する男子であり、女子が家督を継いだ場合は叙爵されなかったが、華族としては認められ、後に家督を継ぐ男子を立てた場合に襲爵が許された[注釈 20]。しかし女戸主1907年(明治40年)の華族令改正で廃止され、男当主の存在が必須となった。また男系相続が原則であると規定されている[9]。また有爵者は原則として隠居を禁じられていたが、1907年(明治40年)の改正により民法と同様の隠居が可能になった[10]

華族令によると、華族とされる者は有爵者のみであるとされていたが、皇室典範にある皇族は、皇族および華族のみと結婚できるという規定と矛盾するという指摘が行われた[11]。このため貴族院では華族の範囲を有爵者の家族にまで広げるという議決が行われたが、帝室制度調査局による修正により、結局有爵者のみが華族であり、その家族は有爵者の余録によって「族称としての華族」を名乗るという扱いとなった[12]。また1907年(明治40年)の華族令改正より、華族とされる者は家督を有する者および同じ戸籍にある者を指し、たとえ華族の家庭に生まれても平民との婚姻などにより分籍した者は、平民の扱いを受けた。また、当主の庶子も華族となったが、はたとえ当主の母親であっても華族とはならなかった(皇族も同様で、大正天皇の実母である柳原愛子は皇族ではない)。養子を取ることも認められていたが、男系6親等以内が原則であり、華族の身分を持つことが条件とされていた。

華族身分の剥奪・返上

奈良華族などの財政基盤が不安定であった家や、松方公爵家・蜂須賀侯爵家のように当主のスキャンダルによって華族身分を返上することも行われた。多くの場合、自主的な返上にとどまるが、土方伯爵家(土方与志)の例や旧堀江藩主大沢家の事例は華族身分が剥奪されている。また、華族令では懲役以上の刑が確定すれば自動的に爵位を喪失するものとされていた。

  • 維新後に大名・堀江藩主となった大沢基寿は、元は堀江領3550石を知行する高家旗本だったが、明治元年8月に行った検地で実高5485石に浜名湖の湖面の一部を「開墾予定地」として架空の新田内高4521石を計上、都合1万0006石という虚偽の報告を行なった。堀江藩主となった基寿は版籍奉還で華族に列したが、廃藩置県後の再調査で報告の虚偽が露見、基寿は華族身分を剥奪、士族に落とされた上で、禁固1年の実刑判決を受けた。



注釈

  1. ^ このうち広島新田藩浅野家は廃藩後に華族となることを辞退した。
  2. ^ 松崎家(松崎万長家)・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家北小路俊昌家)・若王子家(聖護院院家若王子住職家)。
  3. ^ 徳川御三卿のうち2家(一橋徳川家田安徳川家)、徳川御三家附家老家5家(成瀬家・竹腰家(尾張徳川家)、安藤家水野家紀伊徳川家)、中山家水戸徳川家))、毛利氏の家臣扱いだった岩国藩吉川家、1万石以上の所領を持つ交代寄合6家(山名家池田家山崎家平野家本堂家生駒家)、1万石以上の所領を持つ高家だった大沢家。ただし大沢家は所領の水増し申告が露見し1万石以下であることが確認されたことから、後に華族の身分を剥奪され士族に編入された。
  4. ^ 徳川御三卿の清水徳川家は当主不在であり、翌年に徳川篤守が相続した際に華族に列せられた。
  5. ^ 大久保家と木戸家は明治11年(1878年)5月23日に華族に列した。いずれも後に侯爵
  6. ^ 広沢家は明治12年(1879年)12月27日に華族に列した。後に伯爵
  7. ^ 南北朝時代南朝方の忠臣だった新田義貞の功により新田家新田岩松家)が、名和長年の功により名和家が、菊池武光の功により菊池家米良菊池家)が、それぞれ華族になっている。いずれも後に男爵。
  8. ^ ただし、全ての華族が同時に叙爵されたわけではなく、戸主が女性であった家や終身華族・門跡華族・戸主が実刑を受けていた芝亭家などは叙爵が遅れた。
  9. ^ 清水徳川家で初め徳川篤守が伯爵、次代の徳川好敏が男爵となったが、これは篤守が爵位を返上ののち、家督を継いだ好敏が改めて自身の功績により男爵に叙せられたものである。
  10. ^ 大名家の表向きの石高である「草高」ではなく、実収を基準に決められた石高を現米とする。
  11. ^ 尚氏当主の尚泰の叙爵は翌年の明治18年(1885年5月2日。叙爵内規では「旧・琉球藩王」となっている。
  12. ^ 中納言を一旦辞すことなく直に大納言に任じられることを「直任」といい、一旦中納言を辞した後に改めて大納言に任じられることよりも格上とみなされた
  13. ^ 成羽藩矢島藩村岡藩
  14. ^ 平田家は家格こそは押小路家・壬生家の次とされていたが、実質においては「地下官人之棟梁」として両家と同格扱いを受けていた。詳細は西村慎太郎『近世朝廷社会と地下官人』第一部「近世地下官人の組織と制度」第二章<近世地下官人組織と「地下官人之棟梁」>に詳しい。
  15. ^ 北島家千家家出雲大社)、到津家・宮成家(宇佐神宮)、河辺家・松木家(伊勢神宮)、津守家住吉大社)、阿蘇家阿蘇神社)、紀家日前神宮・國懸神宮)、高千穂家(英彦山神社)、小野家(日御碕神社)、金子家(物部神社)、西高辻家太宰府天満宮
  16. ^ 渋谷家(佛光寺)、華園家(興正寺)、常磐井家専修寺)、木辺家(錦織寺)。ただしいずれの門跡も当時は皇族摂家から養子に入った者であった。
  17. ^ 華族の一族内に限って通用する法規
  18. ^ 有爵者、もしくは有爵者の嫡子が20歳になると従五位に叙せられる。
  19. ^ ただし実際にはほとんどが「有爵者(当主)の子女」だった。大正天皇第二皇子の雍仁親王(秩父宮)松平恒雄長女の節子(勢津子妃)と結婚した際には、恒雄が無爵だったことが大きな話題となった(子爵会津松平家の当主は恒雄の兄の容大、その跡を恒雄の弟の保男が継いでおり、結婚に際して保男が勢津子の養父となった)。
  20. ^ 姫路藩主酒井家で、酒井文子が当主を務めたのち、満8歳で家督を譲られた忠興が同時に伯爵を授爵している。
  21. ^ 白洲次郎の各種述懐による。

出典

  1. ^ 浅見雅男『華族誕生』リブロポート、1994年、24頁。
  2. ^ 神谷次郎、安岡昭男et al.、小西四郎(監修)『幕末維新事典』新人物往来社、1983年9月20日、596-599頁。
  3. ^ 同じ時期の士族は188万3265人、卒7246人。旧神官8914人、僧19万8435人、尼7680人。平民3151万4835人(このほかに樺太人2374人)。『幕末維新事典』による
  4. ^ 居相正広『華族要覧(第1輯)』居相正広、1936年9月28日、21頁。doi:10.11501/1018502
  5. ^ 佐藤雄基「松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』(吉川弘文館、二〇一五年)」『史苑』第78巻第2号、2018年、 109-110頁、 doi:10.14992/00016470
  6. ^ a b c 細野哲弘「一文字大名 脱藩す」『特技懇』第290号、特許庁技術懇話会、2018年、 130-137頁。
  7. ^ 酒巻芳男「第11章 華族の特権」『華族制度の研究 在りし日の華族制度』霞会館、1987年、301-331頁。
  8. ^ a b c 浅見雅男『華族たちの近代』NTT出版、1999年、20頁。
  9. ^ 小林和幸 2013, pp. 75-76.
  10. ^ 小林和幸 2013, pp. 66.
  11. ^ 小林和幸 2013, pp. 67-78.
  12. ^ 小林和幸 2013, pp. 76.
  13. ^ 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の昭和』中央公論新社〈中公文庫〉、243-252頁。ISBN 978-4-12203542-3
  14. ^ 内藤一成『貴族院』同成社、2008年、122頁。
  15. ^ a b 芦田均日記 憲法改正関連部分(拡大画像) 日本国憲法の誕生”. ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2020年2月12日閲覧。


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