范曄 経歴

范曄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 21:26 UTC 版)

経歴

范曄は東晋の隆安2年(398年)、名門である順陽范氏の一族に生まれた。曾祖父の范汪は東晋の安北将軍・徐兗二州刺史・武興県侯。祖父の范寧は臨淮郡太守・豫章郡太守で『春秋穀梁伝集解』の著者。父の范泰は南朝宋の侍中光禄大夫となり、死後は車騎将軍を追贈されている。范曄は范泰の四男で、兄に范昂・范暠・范晏、弟に范広淵がいる。子は范藹・范遙・范叔蔞。孫は范魯連(范藹の子)。

范曄の幼名は「磚」というが、これは范曄の母が彼を便所の中で生んだ時に彼の額が磚(レンガ)に当たって傷ついてしまったことから名づけられた[2]。若くして学問を好み、経書と史書に広く通じ、文章を作るのが巧みであり、音律にも詳しかった[2]

永初元年(420年)、劉裕(武帝)が宋を建国すると、范曄は武帝の子の彭城王劉義康の冠軍参軍となり、尚書外兵郎・荊州別駕従事史・秘書丞・征南司馬・領新蔡郡太守・司徒従事中郎・尚書吏部郎などを歴任した。

范曄は、たびたび奇行を起こしたと伝えられている。元嘉8年(431年)、江州刺史の檀道済の属官であったとき、北魏軍を討つために北征の命令が下ったが、范曄は足の病と称して断った。しかし、文帝は許さず、范曄を物資輸送の監督に就かしめた[3]。また、翌年、范曄は劉義康の母の葬儀に通夜の客として参列していたが、夜に弟の范広淵らとともに宴席を開いたことで劉義康の怒りを買い、宣城郡太守に左遷された[3]。元嘉16年(439年)、范曄が長沙王劉義欣の長史であったときには、兄の范暠の任地で嫡母が危篤になったが、范曄はすぐに出発せず、後から妓妾を連れ立って現れて非難された[4]

左遷されて宣城に在任していた頃、范曄は発憤し『後漢書』の編纂を開始した。先行して存在した『東観漢記』や『後漢紀』、他の数種の『後漢書』を整理しながら、新たな後漢の歴史書を作り上げた。

謀反事件

文帝の弟である劉義康は、宰相として内外の政務を取り仕切り、その権勢は皇帝を凌ぐものがあった。元嘉17年(440年)、文帝は劉義康の腹心であった劉湛以下十数名を誅殺・流刑に処し、劉義康を江州刺史に左遷した。代わりに皇子の始興王劉濬が揚州刺史として迎えられたが、劉濬は12歳と幼く、州事を代行していたのが范曄である[5]。同年に宿営の衛兵を統括する左衛将軍、元嘉19年(442年)に東宮の衆務を司る太子詹事を務め、順調に出世していた[5]

左遷された劉義康の配下にいたのが孔熙先で、彼は劉義康のために謀反を計画した。朝臣を抱き込むために范曄が必要であり、范曄の外甥の謝綜を通じて親交を持った[6]。この謀反には、他に仲承祖・徐湛之・謝綜などが参加し、兵は臧質蕭思話が準備する手筈になっていた[7]

しかし、元嘉22年12月乙未(446年1月23日)、徐湛之の密告により孔熙先らの計画は露見し、范曄も処刑された[8]








范曄と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「范曄」の関連用語

范曄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



范曄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの范曄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS