満洲里会議 評価

満洲里会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/16 09:23 UTC 版)

評価

満洲里会議は、小国モンゴルと満洲国を当事者とする交渉にすぎず、国境画定などの具体的な成果を残せずに失敗に終わっており、極東の国際情勢や日ソ関係の緊張緩和に寄与することは無かったとする評価が一般的である。実質的に日ソ間の対立である以上、日ソ間の対立が解決されない限り、モンゴルと満洲国が独自に紛争を解決することは不可能だったと見られる[13]。逆に、日ソ間で勢力範囲としての国境画定が行われない限り、事態の根本的解決は不可能だということが日ソ両国にとって明確に認識された点に意味があるとの評価もある[14]

これに対し、モンゴル軍の戦史研究者であるゴンボスレン大佐は、満洲里会議が成功すればノモンハン事件のような大規模衝突を回避可能だったと主張している[15]。ノモンハン事件の回避までは不可能だったとしても、交渉期間中の日ソの衝突の牽制に一定の効果を発揮していたとの見解もある[14]

また、モンゴルの立場から見ると、日本・満洲国と独立国として外交交渉する機会を得たことで、国際的地位の向上につながったとする評価もある。マンダフ・アリウンサイハンは、日ソ中立条約で日本がモンゴルを独立承認したのも、その影響があったと主張する[14]

参考文献




  1. ^ ウルジン少将ではなく、興安北省長の凌陞とする研究者もある[1]
  2. ^ 1939年にノモンハン事件の舞台となる地域。
  1. ^ 田中(2009)、90頁。
  2. ^ a b アリウンサイハン(2005)、115-116頁。
  3. ^ 田中(2009)、93-94頁。
  4. ^ a b アリウンサイハン(2005)、117頁。
  5. ^ 防衛研修所戦史室 『関東軍(1)』、320-321頁。
  6. ^ a b アリウンサイハン(2005)、119頁。
  7. ^ 防衛研修所戦史室 『関東軍(1)』、322-328頁。
  8. ^ 田中(2009)、109-112頁。
  9. ^ a b アリウンサイハン(2005)、121頁。
  10. ^ a b アリウンサイハン(2005)、122頁。
  11. ^ a b アリウンサイハン(2005)、124-125頁。
  12. ^ 田中(2009)、105頁。
  13. ^ アリウンサイハン(2005)、123頁。
  14. ^ a b c アリウンサイハン(2005)、128-129頁。
  15. ^ 田中(2009)、92頁。


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