深作欣二 人物

深作欣二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 02:33 UTC 版)

人物

深作作品には欠かせない存在だった千葉真一にとって[14]、深作はかけがえのない師匠であり盟友だった[2][13]。千葉が1990年代からハリウッドに拠点を移していた際に「(千葉が)まだ独りでロサンゼルスに住んでいたころにわざわざ来てくれてね。そのころまだ自炊をしていたので、自分で作った料理を食べてもらったんです。『おい、いつの間にこんなに料理がうまくなったんだ(笑い)』って言われましたよ。滞在中は映画の話をたくさんしました」と述懐している[2][13]。千葉はインタビューの際、最も尊敬する映画監督である深作を世界で活躍してほしかったこともあり、キンジ・フカサクと敬意をこめて呼んでいる[15]

干されていた室田日出男、大部屋でくすぶっていた川谷拓三志賀勝らを抜擢し、ピラニア軍団として知らしめた[5]福本清三は「監督は大部屋俳優の名前を覚えてくれず、『そこ』、『おい』程度でしか呼ばれないが、深作監督はわしら大部屋俳優でも名前で呼んでくれた」と証言している[16]。初めて東映京都撮影所で演出した際には殺陣師・擬斗師がいるにも関わらず、自ら殺陣擬斗を細かく指示し、福本ら大部屋俳優のシーンにも綿密にリハーサルをしたので大部屋俳優たちに驚かれた[16]。映画の打ち上げ時に福本は「スターさんにあまり言わないで、なぜわしら(大部屋俳優)に細かく指示するのか? 自分たちは撃たれる時も殺される時も、かっこよくできる」と思わず質問[16]。深作は「(大部屋俳優には)台本も渡されてないから、なぜ殺されるのか、殺された後、組がどうなるか、状況や背景を説明してるんだよ。映画はスターだけじゃなく、映っているみんなが主役なんだ。スターさんがどんなに一生懸命でも、スクリーンの片隅にいる奴が遊んでいたら、その絵は死んでしまう。だから同じ子分でも、それぞれが個性を出して殺されてほしいから、うるさいだろうけど、細かく指示を出すんだよ」と諭した[16]。福本は「この人、ただもんでないわ」と唸り、それまで大部屋俳優として幾度となく殺されてきたため、慣れ・自信・奢りがあったかもしれないと、反省したという[16]。福本はこれ以降、与えられた役をとにかく一生懸命にやろうと転機になったと述べている[16]

夜型で徹夜が平気な体質を持ち、深夜になっても撮影に入らない凝り性で、スタッフが疲弊することが多く[17]、苗字をなぞらえて「深夜作業組」と呼ばれるほどテストやリハーサルが長かった[18]。また映画『ファンキーハットの快男児』から始めた手持ちカメラはその後の数々の作品で導入され[7]ストップモーションナレーションを効果的に使った作品を生み出してきた[19]。時に脚本を変えてしまうことから[注釈 2]、『仁義なき戦い』では笠原和夫 から監督登用に拒まれたこともあった[注釈 3]。製作者として深作と関わった角川春樹は「論理より感覚で撮る人で、凝り性」と述べている[17]

自主製作的なことは一切行わなず、門下の中田新一は著書『奔れ!助監督』で、監督は自分の金を映画に一銭も出してはいけないと教えられたと記している。どうしても撮りたい企画があった場合は、東映の外で出資してくれるプロダクションを探すという姿勢だった。その関係で、1970年前後に共産党系のプロダクションで何本か監督しているが、党員ではなく特にシンパ活動などは行っていない。『仁義なき戦い』などはむしろ山田和夫ら共産党系の評論家に叩かれたぐらいである。しかし、フリーとしての活動はかならずしも順調ではなく、40代で24本、50代で10本の映画を監督した深作も、60代では3本の映画しか撮れなかった。

サム・ペキンパーのファンで、『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』を好きな映画に挙げている[21]。ペキンパーが『戦争のはらわた』のプロモーションのためにジェームズ・コバーンと共に来日し、『独占!男の時間』に出演していると、泥酔した川谷拓三が乱入してきた[22]。川谷も深作同様にペキンパーのファンだが、ペキンパーが監督した映画「『ゲッタウェイ』!!!」と吠えながら握手をして、「ペキンパー、深作欣二と勝負せんかい!」と叫んでいた[22][23]


注釈

  1. ^ 第一作の必殺仕掛人の他、続編の企画に参加し中村主水を生む。
  2. ^ 角川春樹は「話を暗い方へ変えたがる傾向があった」と評している[17]
  3. ^ 深作は一切、脚本に手を入れないことを約束している[20]

出典

  1. ^ a b c d e 深作雄太郎 著、森田美比 編『ある茨城県農政史―農林技師・深作雄太郎日記―』昌平社、1980年、3,7,37,40頁。 
  2. ^ a b c “千葉真一インタビュー <日曜のヒーロー> - 第355回”. 日刊スポーツ (nikkansports.com). (2003年3月30日). オリジナルの2005年8月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20050830223728/http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/interview/2003/sun030330.html 2011年11月13日閲覧。 
  3. ^ 千葉流 サムライへの道、140 - 141頁。
  4. ^ 菅原文太、ほか「映画監督 深作欣二の軌跡」『キネマ旬報 臨時増刊』第1380号、キネマ旬報社、2003年、154頁。 
  5. ^ a b 千葉真一、深作欣二の初監督の怒号に驚いた”. アサ芸+. 徳間書店 (2012年11月27日). 2012年12月5日閲覧。
  6. ^ 黒田邦雄「ザ・インタビュー 千葉真一」『KINEJUN キネマ旬報』第1655巻第841号、キネマ旬報社、1982年8月1日、131頁。 1982年、8月上旬号。
  7. ^ a b c d e f “「仁義なき戦い」シリーズの深作欣二監督が死去”. 日刊スポーツ (nikkansports.com). (2003年1月13日). オリジナルの2003年2月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20030206060523/http://www.nikkansports.com/jinji/2003/seikyo030113.html 2014年10月31日閲覧。 
  8. ^ 金箱隆二 編「『仁義なき戦い』の役者インタビューII 渡瀬恒彦」『追悼! 菅原文太 仁義なき戦い COMPLETE』川田修〈TOWN MOOK〉、2015年1月10日、83頁。ISBN 4197103964 
  9. ^ a b c d e f g 深作監督通夜、来ては困る女優の名前”. ZAKZAK (2003年1月16日). 2014年10月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月12日閲覧。
  10. ^ a b 中原早苗『女優魂 中原早苗』ワイズ出版、2009年、176頁。ISBN 9784898302354 
  11. ^ a b 千葉真一、見参!”. 加瀬健治のブログ. 楽天ブログ (2014年10月30日). 2014年10月31日閲覧。
  12. ^ 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、176頁。ISBN 978-4-636-88519-4 
  13. ^ a b c 深作欣二「千葉ちゃん、ウソって観客に思わせたら負け」」『アサ芸+』、徳間書店、2012年11月29日、2013年1月1日閲覧 
  14. ^ 必殺4 恨みはらします”. 東映チャンネル. 2013年2月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年2月6日閲覧。
  15. ^ 千葉流 サムライへの道、132頁。
  16. ^ a b c d e f 福本清三、小田豊二『どこかで誰かが見ていてくれる 日本一の斬られ役・福本清三』集英社、2001年11月30日、211-215頁。ISBN 4420310030 
  17. ^ a b c 『最後の角川春樹』、2021年11月発行、伊藤彰彦、毎日新聞出版、P153
  18. ^ 西郷輝彦「現場が凍った萬屋錦之介と深作欣二の衝突」」『アサ芸+』、徳間書店、2012年12月7日、2013年1月1日閲覧 
  19. ^ 「仁義なき戦い」40年目の壮絶秘話(1)「顔のシワ作り」に励んだ松方」『アサ芸+』、徳間書店、2012年11月28日、2012年11月29日閲覧 
  20. ^ 深作欣二「仁義なき戦い」の脚本に一目惚れ」『アサ芸+』、徳間書店、2012年12月25日、2013年2月2日閲覧 
  21. ^ ワイズ出版 2003, pp. 60, 「松竹ヌーヴェルヴァーグの登場」
  22. ^ a b 伊藤彰彦「映画の奈落 北陸代理戦争事件」p.227
  23. ^ 小林信彦「映画×東京とっておき雑学ノート」(文藝春秋)P.193
  24. ^ 水戸市史編さん近現代専門部会 編『水戸市史 下巻』 1巻、水戸市、1993年、436頁。 
  25. ^ a b 水戸市史編さん近現代専門部会 編『水戸市史 下巻』 2巻、水戸市、1995年、139頁。 
  26. ^ 『昭和大典記念 自治業界發達誌』東京日日通信社、1928年、695頁。 
  27. ^ 『茨城人名録』いはらき新聞社、1939年、561頁。 
  28. ^ a b 深作哲太郎 著、深作初枝、深作律夫 編『深作哲太郎遺作遺稿集』深作初枝、1982年、9,11,401頁。 
  29. ^ FukasakuKjのツイート(1540568810344022019)
  30. ^ SawyerMakiのツイート(1545201798973165569)
  31. ^ 深作さんに最後の別れ/映画関係者多数が参列”. 四国新聞社 (2003年1月16日). 2021年5月31日閲覧。
  32. ^ 『ビッグコミックオリジナル 12月20日号』、小学館、1995年、32-34頁。 
  33. ^ 根岸康雄: “深作欣二監督が『仁義なき戦い』ヒット後に父から「田舎に戻れ」と言われた理由”. MAG2 NEWS. まぐまぐ (2021年9月21日). 2023年5月5日閲覧。
  34. ^ 『財界家系図』人事興信所、1956年、307頁。 
  35. ^ 「ふ之部」『人事興信録』 下(22版)、人事興信所、1964年、71頁。 






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