武蔵 (戦艦)
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海底の武蔵
沈没地点
沈没地点は複数の説が存在していた。
- 副長の加藤大佐が退艦時に記載したもので、戦闘詳報に採用されている東経122度32分、北緯13度7分で[87]、この地点の水深は800mである。戦後、アメリカ海軍は海底の武蔵を探深機で捜索したが[239]、発見できなかった。
- 駆逐艦清霜が記録した、東経122度41.5分、北緯12度48分[194]。だが、清霜の報告位置を元にした戦後の水中探査でも、武蔵は発見されなかった[240]。ただし、清霜の砲術長は同艦の航跡自画器は故障していたので、あくまで推測でしかないことを述べている[241]。
- 武蔵ドキュメンタリーを製作した手塚正己はシブヤン島マグディワク町に取材に赴き、町の北方沖合い5km、水深50mに武蔵が沈んでいるという地元漁師の証言を紹介している[242][243]。2015年4月に現地で洋上慰霊祭が開催されたときにも、現地の責任者の将軍から同様の話が聴取されていた[243]。
- 武蔵の生存者で構成された「軍艦武蔵会」が昭和50年に発行した「嗚呼 戦艦武蔵」に掲載されている対空戦闘航跡図を元に、古賀繁一が著書に記載した沈没位置。結果的に、この古賀繁一が提唱した沈没位置が最も正確であった[243]。
沈没地点とされる場所を調査しても武蔵が発見されないことから、「沈んだ時点でも武蔵の艦腹には、なお未浸水の頑丈な防水区画が沢山あって、それらが艦に浮力を与えて海底まで沈下せず、艦内に閉じ込められた英霊と共に、シブヤン海の8-12ノットもある強い潮流に乗って海中を彷徨い続けているのでは」という噂話も存在した[239]。武蔵自体の航海記録は、艦橋に爆弾が直撃して第一艦橋に火炎が吹き込んだために、失われている[243]。
2015年3月2日、マイクロソフト社の共同創業者で、第二次大戦中の軍用機コレクターでもあるポール・アレンの調査チームが武蔵をシブヤン海の水深1000mの地点で発見し、翌日に公式発表した[244]。旧日本海軍史研究家で、大和ミュージアムの戸高一成館長は「艦首の菊花紋章や船を係留するための鎖やロープを通す穴の形状などから、武蔵の艦首と考えてほぼ間違いない」と話した[245]。また、日米複数の専門家が武蔵だと断定した[246]。調査には戦艦フッドの探索にも使用されたアレン私有の海洋調査船オクトパス(全長441フィート)が使用された。武蔵の船体撮影は海底8843フィートまで潜水できる遠隔操作の探査機により行われた。調査は資料収集や海底の地形調査から始められ、実際の船体発見までは8年の年月が必要であった。シブヤン海の地形は複雑であり、いくつかの海底火山もあったが、それらの山頂部は調査区域が除外された。オクトパスからのマルチビーム海底スキャンによって、沈没地点の候補地は狭く絞られた。2015年2月より実際の潜水探査が開始されたが、わずか3回目の探査で武蔵の船体は発見された。発見時には都合によりアレンは現場には居合わせなかった。特定された沈没地点はシブヤン島の真北側のシブヤン海中央部で、清霜が記録した沈没地点のやや西側であった[243]。
アレンは3月13日(アメリカ時間12日)に探査機の映像のインターネット生中継を行った。この映像から艦体の各部が海底に散在している状況が判明し、調査チームは沈没時に火薬庫の爆発が起こったことなどを分析した[247]。また、観測用水上機射出用のカタパルトのマニュアルと思われる日本語の文書も発見された[248]。船体発見が報じられたことを受け、猪口艦長への墓参りが急増したとも伝えられている[249]。
船体の破損状態
武蔵は沈没時に爆発を起こした為に、船体は大きな破損を受けた[243]。船体は1番主砲の後方で切断され、大きく2分割した状態で沈んでおり[243]、両者の距離は100m程度離れている。大和の沈没時と同様に機関部に流れ込んだ多量の海水による機関内水蒸気爆発に加え、その爆発が火薬庫にまで及び、その結果艦体が分断され、構造物が本体から四散する程の大破壊が及んだと推察される。
- 艦首部分 - 艦首側は海底に水平の状態で沈んでいる[243]。1番主砲塔は脱落しており、バーベットの穴が確認されている[243]。その直後から切断されているので2番主砲塔のバーベットは確認されていない[243]。艦首の菊の紋章は残っていない(脱落したか腐食したと考えられている)[243]。左側のアンカーは、左舷への傾斜を回復させるためにアンカーチェーンと一緒に海中投棄されたので、記録の通り船体には残されていなかった[243]。右側のアンカーは残されている[243]。船体下部には複数の魚雷による破壊孔が確認されている(出典の書物には左側だけで4か所確認されている)[243]。
- 船尾部分 - 船尾部分は上下逆になって沈んでいる。半分程度が泥に埋まっており、艦底とスクリュー、舵などしか確認できない[243]。切断部分はタービン室付近で、タービンが切断面から観察できる。2枚の舵は正中に固定された状態で海底に直立しているが[243]、主舵については「くの字」の変形が確認された。一部で4枚羽への換装論があったスクリューは、武蔵においても建造時の3枚羽のままであることも確認された[243]。スクリューは1基に変形を認めるが、3基は外観が保たれている。魚雷の命中孔については情報が得られていない[243]。
- 艦橋などの構造物 - 前後の艦橋や15m測距儀、煙突などの最上甲板の構造物は、丸ごと船体から脱落し船首より500m離れた場所に横倒しで沈んでいる[243]。艦橋は爆弾によって右舷側が酷く破壊されている。今まで資料で指摘のなかった後部艦橋基部の見張り台などの新発見があった[243]。煙突は損傷が激しい。マストと後部艦橋の上部は脱落して発見されていない[243]。
- その他のパーツ - 海底まで1000mあったために、パーツは直径1kmの広範囲に落下している。艦橋よりもさらに離れた場所に酷く破損した2番主砲塔の給弾室などの残骸が発見されている。破損の程度は高度であり、2番主砲塔付近の船体が見当たらないことからも、2番主砲の火薬庫が沈没後に誘爆して船体を破壊したと判断されている。1番主砲や3番主砲は発見されていない。
艦橋と船首部分の間500mには、比較的大きな船体構造物やボイラー、カタパルト、対空兵器のシールド、三式弾などが広範囲に散らばって沈んでいる[243]。副砲も1基のみ発見されているが、全体の大部分が泥に埋もれており後部のハッチや片方の測距儀などしか確認できない[243]。
アレンが公表した映像は一部に過ぎなかったが、NHKは100時間にも及ぶ動画の提供を受け、それらを三次元的に画像データとして再構成し、2016年12月4日放送のNHKスペシャル「戦艦武蔵の最期」で公開した。
反響
読売新聞は、歴史的記憶として貴重であり後世に残すべきとの特集コラムを掲載した[250]。また、週刊新潮と朝日新聞は引き上げにかかる費用を試算し、巨大な費用がかかる事から現実的でないとしている[251]。また、この発見を受けて自主映画製作も発表されている[252]。
注釈
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(備考)尚ほ此の外に幕末に初代の軍艦とも云ふ可き「武蔵」あり、同艦は明治元年11月外国人より購入(製造場所、竣工年月日、及原名等不詳)のものにして、同2年2月品海碇泊中火を失して焼く、同3年安芸、焼残船体を大蔵省に交付す。(要目略)』 - ^ #内藤レクイエム96-100頁、 #武蔵建造記録24-25頁
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