森口益光 来歴・人物

森口益光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 20:28 UTC 版)

来歴・人物

大商大付高時代から速球投手として大阪では有名な存在であった。3年次の1971年夏の甲子園府予選では準々決勝で田尾安志を擁する泉尾高に9回逆転負け、甲子園には届かなかった。

高校卒業後は近畿大学に進学し、関西六大学野球リーグではエースとして2度の優勝に貢献した。3年次の1974年春季リーグで6年ぶりに優勝。直後の第23回全日本大学選手権では、準決勝で中畑清らのいた駒大(決勝で早大に2-3で敗れ準優勝)に延長13回0-1で敗退。同年の第3回日米大学野球選手権大会日本代表に、チームメートの神垣雅行とともに選出される。1975年秋季リーグで自身2度目の優勝を飾り、続く第6回明治神宮野球大会1回戦で名城大に4-7で敗れた。リーグ通算72試合登板、39勝17敗、防御率1.92、406奪三振。記者クラブ賞1回、ベストナイン2回受賞。大学同期に中司得三がいる。

1975年のドラフトで南海ホークスから1位指名を受けて入団。

1977年には一軍に定着。

1978年には藤田学に次ぐ26試合に先発、9勝をあげる。特に日本ハム戦に強く、「ハムキラー」といわれた。

1979年は、同年ロッテオリオンズに入団した落合博満にプロ初安打を打たれている。(落合とはのちに移籍した中日ドラゴンズで、現役晩年の2シーズン、チームメイトとなった。)

1982年以降は低迷、登板機会も減少する。

1984年は抑えに転向、金城基泰と共にダブルストッパーに任じられたが振るわなかった。

1986年10月自由契約となり中日に移籍。ここでも先発要員として起用された。

1988年限りで現役引退。

引退後は大阪市内にあるホテルマン勤務の傍ら東大阪市にある元プロ野球選手による少年野球塾『野球塾チェイスアワードリーム』にコーチとして所属。勤務するホテルは福岡ソフトバンクホークスの選手が近畿遠征する際に宿泊に使用されている。

球種はストレート、カーブ、シュート。




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