桂右之助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 04:33 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動本名 | 鹿島 卯之助[1] |
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別名 | 桂 藤松 |
生年月日 | 1903年 |
没年月日 | 1971年3月6日 |
師匠 | なし[1] |
略歴
現在の大阪府豊中市に生まれる。職を持ちながら寄席に通い、1920年頃[1]、下足番に頼み込んだ末、太夫元(興行主)の岡田政太郎に認められ[1]、落語家としての活動を許された。このような経緯のため、どこの門下にも属さなかった。岡田の計らいで本名の卯之助にちなんで「桂右之助」の高座名をもらった。桂 藤松を名乗っていた時期もある。
若手時代は初代桂春團治に気に入られ、多忙だった初代が到着するまで高座や座敷で時間をつなぐ「座持ち」を専任していたという[2]。
2代目桂花團治に下座囃子の稽古を受け、下座として重宝され、晩年に至るまで、吉本興業の各劇場や、千土地興行の千日劇場[2]でヘタリをつとめた。その一方、落語会などで落語を演じた。
喘息のため、故郷の豊中で死去した。
芸風・人物
橘ノ圓都、3代目笑福亭福松、4代目桂文團治、初代桂南天らと同様、昭和期に滅びかけた上方落語全盛期を知る古老として、3代目桂米朝、3代目桂春団治ら若手を精力的に指導し、上方落語の継承に努めた。
米朝は右之助から、演じ方が分からなくなっていた『骨釣り』『矢橋船』などのあらすじを聴き取り、仕立て直した。
笑福亭松之助は右之助から、「時間を盗む」「お客によく分かる」演じ方を叩き込まれた[2]。
楽屋では非常に几帳面で、着物、雑巾、鳴り物の道具などが整った形でテーブルに揃っていないと気になったという。漫才の西都ハロー・ジローのジローの義手まできっちり揃えていたというエピソードがある。
参考文献
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- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X
関連項目
- 1 桂右之助とは
- 2 桂右之助の概要
固有名詞の分類
- 桂右之助のページへのリンク