李陽冰
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李陽冰刊訂説文解字
このほか後漢の許慎による字書『説文解字』を校訂したとされるが現存しない。説文解字繫傳(小徐本)、また『六書故』に引かれる若干の条が残るだけだが、現行の説文解字の掲出字が玉箸体になっているのは李陽冰の影響と考えられている[注 4]。
参考文献
- 下中邦彦編(尾上八郎・神田喜一郎・田中親美監修)『中國9 唐3・五代』 第10巻、平凡社〈書道全集〉、1956年。 NCID BN04517965。
- 藤原楚水『隋・唐時代の書道』 3巻、省心書房〈図解書道史〉、1972年。 NCID BN04158181。
- 二玄社編集部編(監修:西川寧・神田喜一郎)『唐 李陽冰 三墳記』 136巻、二玄社〈書跡名品叢刊〉、1969年。 NCID BN03571808。
- 説文会(監修:頼惟勤)『説文入門』大修館書店、1983年。ISBN 9784469230338。
(中国語) 全唐文巻437 李陽冰, ウィキソースより閲覧。
(中国語) 全唐文巻394 説文字源序, ウィキソースより閲覧。
(中国語) 新唐書巻202 李白, ウィキソースより閲覧。
- 戸崎哲彦「李陽冰事跡考(上):唐代文人・李陽冰とその周辺」『島根大学法文学部紀要 言語文化学科編』第15巻、2003年8月31日、1-42頁、doi:10.24568/5585、2023年1月7日閲覧。
- 戸崎哲彦「李陽冰事跡考(下):唐代文人・李陽冰とその周辺」『島根大学法文学部紀要 言語文化学科編』第16巻、2004年2月27日、1-48頁、doi:10.24568/5576、2023年1月7日閲覧。
- ^ 全唐文に李陽冰の文章がいくつか収められている(全唐文 巻437)。その中の「上李大夫論古篆書」に「陽冰年垂五十」と見えることから、この「上書」は満48歳の時点で書かれたものと考えられる。大暦7年(772)に書かれたと考え開元12年(724)生とする説と、大暦3年(768)と考えて開元8年(720)生とする説があるが、戸崎 2003では両説を検討して開元12年(724)生としている。
- ^ 没年に関して、戸崎 2004は、『集古目録』に「唐咸宜公主碑」(興元元年(784)立)に李陽冰の篆額があったとされることから、この時点では存命であり、翌貞元元年(785)成立の『説文字源』の序において賈耽が「因請騰繼世父之妙」と李陽冰の甥の李騰に書かせたとすることから(全唐文 巻394)、この時点では没後と考え、貞元元年(785)没とした。
- ^ 伏見冲敬は『唐李陽冰三墳記』の解説の中で記録にあるものを30件ほど、実際に見ることができるものを数種とする。 朱関田『唐代書法家年譜』(2001)では作品を68と数える。 戸崎は著録にその名が見える作品・著作を収集し、約90を数えている(戸崎 2003)。
- ^ 説文入門, pp. 9–10
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