日活 年譜

日活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 00:43 UTC 版)

年譜

大正年間

昭和戦前

  • 1927年- 岡田嘉子退社。入江たか子入社。
  • 1928年- 京都太秦撮影所が完成し、大将軍撮影所は閉鎖。
  • 1929年 - 岡田時彦退社。初の部分トーキー作品『大尉の娘』『藤原義江のふるさと』を製作・公開。
  • 1929年5月21日 - 片岡千恵蔵プロダクションと業務提携
  • 1930年- 山田五十鈴入社。
  • 1932年 - 太秦撮影所の従業員1400人の内200人を解雇し、残る者も1割減俸という「日活大旋風」が起こる。「馘首減俸絶対反対期成同盟」が結成され、永田雅一が委員長に納まる。結局、150人が解雇されるが減俸は逃れて幕を閉じる。騒動の渦中で横田社長が辞任して、専務の中谷貞頼が社長に就任する。中田弘二入社。
  • 1934年 - 東京調布の多摩川撮影所(後の角川大映撮影所)が完成し、現代劇部を東京に再移転。永田雅一、山田五十鈴退社。
浅草公園六区の根岸興行部の残党である根岸寛一(映画監督根岸吉太郎の大叔父にあたる)が多摩川撮影所の所長に就任。
東京有楽町の日本劇場(日劇)を直営するが、失敗し撤退。この一件で大株主の福田英助(都新聞社主)が経営陣に突きつけた経営責任を巡り社内は紛糾し、中谷社長が辞任。
この一件で堀が推し進めていた東宝との提携は無効となる。大株主の福田一派の告発によるものだが、松竹大谷竹次郎はこれに乗じて、堀の資金源だった千葉合同銀行より日活債権の買取へ動く。
逮捕後程なく、松竹が日活分裂のために元日活京都撮影所長の永田雅一に出資していたダミー会社の第一映画社が解散。永田は同じく松竹系の新興キネマ京都撮影所所長に就任。
経営陣はこうした松竹、東宝の動きに対し中立的な立場から大阪の興行主・森田佐吉を社長に、東京の興行主・大蔵貢を常務に据えた。しかしながら、大蔵が松竹と通じていたため、利益相反行為で問題となる。
  • 1937年 - 大河内傳次郎、鳥羽陽之助、黒川弥太郎、花井蘭子、原節子らが退社。阪東妻三郎片岡千恵蔵月形龍之介が入社。
  • 1938年 - 債権者と和議が成立。これにより東宝・松竹両社による日活株式争奪戦に発展。森田は暴力団を連れて多摩川で根岸所長の排斥へ動く森田は野田卯太郎ら大物をバックにつけた右翼団体の幹部でもある[要出典]。根岸寛一は職を辞し、マキノ満男満映へ移籍した。根岸・マキノは、戦後に東宝、松竹、大映と対抗する第四系統の東映に満映から人材を送り込むことになる。嵐寛寿郎入社。
  • 1939年 - 東宝・松竹両社の関連会社となる。山本嘉一。
  • 1940年 - 月形龍之介退社。
  • 1942年 - 製作部門一切を大日本映画製作株式会社(大映)へ現物出資、日活は興行専業の会社となる。

1940年代

  • 1945年 - 社名を日活株式会社に変更。
  • 1946年 - 映画興行を再開、大映系列劇場となる。
  • 1947年 - 東宝・松竹両社が所有していた日活株式が経営陣に譲渡され、両属状態から解放。独立会社となる。一方、逆に大映株式については大映経営陣他へ譲渡を余儀なくされる。堀久作が正式に社長に就任。劇場経営を邦画(大映系)から洋画系に転じる。
  • 1949年 - 東京・港区に「日活スポーツセンター」を開設。アイススケート場を運営。経営多角化を推進。

1950年代

  • 1950年 - 日活国際会館の地鎮祭が執り行われる(1月30日)。
  • 1951年 - 静岡県伊豆地区の天城湯ヶ島に「天城日活ホテル」(現在は独立)を建設。ホテル業に進出。
  • 1952年 - 新東宝の社長佐生正三郎の要請を受け、経営難に陥っていた同社の株式を購入。同社の救済合併を画策し、映画製作復活を目指した。しかし、結局、東宝の横槍が入って失敗に終わり、日活は自力で映画製作再開を目指す事になった。同年、東京日比谷交差点角に「日活国際会館」を建設、ビル内に日活国際ホテルを開業するとともに、本社を同会館内に移転し賃貸ビル業を開始した(このビルは1970年に三菱地所に売却され日比谷パークビルとなるも2003年に解体され、跡地は2007年よりザ・ペニンシュラ東京となっている)。「日活四十年史」を発行。
  • 1954年 - 五社協定の圧力に屈せずに、各社のスター、スタッフを大量に引き抜き、そして東京・調布市日活撮影所を建設し、映画製作を再開。6月29日に『国定忠治』、『かくて夢あり』が封切られる。神奈川県片瀬海岸に江の島水族館を開館。 福岡県福岡市中洲に「博多日活ホテル」を開館。
  • 1956年 - 石原裕次郎入社。
  • 1957年 - 六社協定締結。既存大手5社(東宝・松竹・大映・東映・新東宝)との対立関係に終止符を打つ。映画製作再開時の資金未回収を含む業績不振で無配に転落。「江ノ島マリンランド」開場。10月から12月にかけて、賃金遅配。日本テレビに対する映画貸出を中止。
  • 1958年 - 日本教育テレビ(後のテレビ朝日)へ東映・新東宝と共に出資。
  • 1959年 - 石原裕次郎の活躍や「南国土佐を後にして」のヒットもあり、復配に成功。映画興行も好調で、配収が東映に次ぐ業界2位に躍進(1964年まで)。

1960年代

  • 1960年 - 吉永小百合入社。4月5日、株式会社天城カントリー倶楽部創立。
  • 1961年 - 2月14日、赤木圭一郎が日活撮影所内で乗り回していたゴーカートで事故を起こし重傷を負う。21日死去。
11月3日「天城日活カントリー倶楽部」を開設。18ホールのゴルフ場とホテルでオープンし、ゴルフ場事業に進出。
  • 1962年 - 映画興行部門は堅調ながら、不動産部門の多額の赤字損失計上により、無配に再転落。「日活五十年史」発行。
  • 1963年 - 千本日活館を田中不動産に3,990万円で売却、名古屋日活劇場を竹中工務店に7億5,000万円で売却。天城カントリー倶楽部に9ホールの里見コースが開設され、27ホールとなる。
  • 1964年 - 基幹劇場だった丸の内日活劇場を14億2千万円で三菱地所に売却(後の新有楽町ビルヂング北東角)。日活ホテルの総料理長である馬場久が東京オリンピック男子選手村の料理長に就任する(なお、女子選手村の料理長は帝国ホテル村上信夫であった)。
  • 1965年 - 配収大幅減で東宝、東映に次ぐ業界3位に転落。 映画『黒い雪』(監督武智鉄二)が摘発され、裁判沙汰に。製作再開時からの山崎辰夫撮影所長を更迭、後任は山根啓司製作部長が就任。堀久作の実子・堀雅彦が入社。希望退職を募集し、150名が応募。
  • 1967年 - 製作再開以来の映画担当重役だった、江守清樹郎専務、山根啓司撮影所長、石神清宣伝部長らが総退陣。後任は堀雅彦副社長が映画担当に、配給部長だった村上覚が撮影所長に就任。この騒動で現場も混乱。業績も急激に悪化の一途を辿る。両国日活映画劇場を勧銀土地建物株式会社に1億4,700万円で売却。前年同様に東映、東宝、大映に次ぐ、業界4位。
  • 1968年 - 映画『殺しの烙印』の作品内容を理由に、監督した鈴木清順を解雇。千葉県市原市ボウリング場開場。郡山日活劇場を1億600万円で個人に、神田日活館を1億6000万でタキイ種苗に売却。
  • 1969年 - 博多日活ホテルを4億6,985万円で城山観光に、日活撮影所を15億5,600万円で電気通信共済会に、立川日活劇場を2億6,000万で安田生命に、芝日活アパートを5億7,200万で秀和レジデンスに、藤沢日活劇場を1億7,600万円で美矢川商事にそれぞれ売却。業績不振で深刻な局面に突入。松竹にも抜かれ、業界最下位に転落。浦山桐郎監督作品「私が棄てた女」9月に公開される。

1970年代

  • 1970年 - 大映と配給網を統合し、ダイニチ映配を設立(社長は大映の松山英夫専務、副社長は日活の壷田十三常務が就任)。8月15日「戦争と人間 第一部」松竹洋画系にて公開。日活国際会館を70億円で三菱地所に、池袋日活劇場を5億5,000万円で竹中工務店に、鶴見日活劇場を6,000万で個人に、それぞれ売却。
  • 1971年 - 春闘では会社側が大幅に譲歩して要求以上の5ケタのベアアップ回答も、日活労組側は「それでは会社が危うい。職場が無くなっては、元も子もない」とそれに反対するという逆転現象が起こる。5月、ダイニチ映配、松山社長病気を理由に社長を辞任。壺田副社長が社長に就任する。

そんな会社側の逃げ腰を象徴するように、6月2日には「日活のワンマン」堀久作社長が電撃退陣し(その後秋の株主総会で会長就任予定だったが、そのまま引退。壺田専務は取締役常務を解任、ダイニチ社長に専念させられ大映と運命を共にする)、後任社長は実子の堀雅彦が就任する。同月には「戦争と人間 第二部」をダイニチを通さずに日活独自で配給し、松竹洋画系で公開すると大ヒット。すると堀雅彦新社長は、ブロックブッキングを捨て、フリーブッキングの大作主義を行うと発表。 7月には映画製作を中断し、再建委員会と機構改革委員会を設置、労使の歩み寄りで協議を始める。ここに日活労組の経営参入が実現する。8月末公開の『不良少女魔子』同時上映『八月の濡れた砂』を最後にダイニチ映配を離脱する。その間、大作主義の一環として、五木寛之原作の「青春の門」映画化を企画するが、紆余曲折の挙げ句、その後東宝が企画を買い取る。また今村昌平監督作品として「ええじゃないか」を企画するも製作される事は無く、大作主義は掛け声のみで終わる。晩夏に至っての労使の機構改革委員会は、「一般映画を廃し、低予算の小型映画(=成人映画)の製作に特化、転向する、それが日活が生き残る最後の方策だ」との結論に達する。そして10月半ばより撮影開始、11月下旬より公開された作品群が、「日活ロマンポルノ」との名称でスタートする。その過程で306名の希望退職を募集。

  • 1972年 - 『愛のぬくもり』、『恋の狩人・ラブハンター』、『OL日記・牝猫の匂い』、『女高生芸者』の成人映画4作品が警視庁に摘発され、翌年、日活ロマンポルノ裁判に発展。「日活児童映画」スタート。第一作は「大地の冬のなかまたち」。
  • 1973年 - 「戦争と人間 第三部」公開。仙台日活劇場をジャスコへ、布施日活劇場を東映へ、梅田日活劇場を日本信販へそれぞれ売却。
  • 1974年 - 日活児童映画第二作「ともだち」完成(松田優作も出演)。11月14日、堀久作死去。享年74。
  • 1975年 - 日活芸術学院開校。10月、本社を撮影所に移す。児童映画第三作「アフリカの鳥」完成。
堀雅彦社長、ボウリング事業の拡大策が裏目に出た経営責任を取って辞任。堀一族は退陣し、江の島水族館を分離する。後任社長は村上覚。
  • 1976年1月 - 「新・どぶ川学級」読売ホールにて特別ロードショー公開。6日間で延べ2万人が来場。

8月「嗚呼!!花の応援団」大ヒット。児童映画第四作「四年三組のはた」完成。

  • 1977年 - 黒澤満撮影所長らプロデューサー一派が岡田茂に引き抜かれ、東映へと移籍(後にセントラル・アーツを設立)。日活撮影所を電気通信共済会から買い戻す和解が成立。児童映画第五作「先生のつうしんぼ」完成。
  • 1978年 - 株式会社日活撮影所、株式会社日活美術、株式会社日活芸能、株式会社日活ビデオフィルムズ、株式会社日活スタジオセンター、日活児童映画株式会社、日活興業株式会社の7社を分社。
債務超過による東証一部上場廃止を回避すべく増減資を行う一方、株式会社流通卸センター(ROC)との提携話等で一連の株価操作を行い、問題となる。
東京地裁でロマンポルノ裁判の被告9名全員が無罪の判決(6月23日)。検察側は判決を不服として東京高裁に控訴趣意書を提出(7月4日)。
株式会社にっかつと改称。
  • 1979年 - 日活労組委員長だった根本悌二が社長に就任。4月、本社を、撮影所から港区赤坂九丁目6番24号の「東京スタジオセンタービル」跡地に新しく建てた「日活スタジオセンタービル」へ移転。1990年10月まで本社として使用。

1980年代

  • 1980年 - 18年ぶりに復配。ロマンポルノ裁判、無罪が確定。
  • 1981年 - 「日本フィル物語 炎の第五楽章」公開。
  • 1982年9月1日 - にっかつ創立70周年記念パーティがホテルニューオータニで催される。
  • 1988年5月28日 - 堀雅彦、葛飾区金町のアパートで死後数日経過しているところを発見される。享年56。「にっかつロマンポルノ」終了。最終作の「ラブゲームは終わらない」で金沢克次、「ベッドパートナー」で後藤大輔の2名が監督デビューを果たす。7月 一般映画製作を「ロッポニカ」ブランドで再開し、「噛む女」「メロドラマ」の二本立てが上映されるが、不入りが続いたことで「首都高速トライアル」「リボルバー」をもって打ち切りが決定される。
  • 1989年2月 - 東北新社のCMを撮影中の日活撮影所第5ステージで火災が発生し、フリースタッフ1名死亡。「ロッポニカ」終了。若松正雄副社長が社長昇格。根本は会長に就任。 8月、ロマンポルノのプロデューサー有志が独立し、別資本の会社新日本映像を設立。「エクセスフィルム」のレーベル名でピンク映画を作り始める。

1990年代

  • 1990年2月20日 - 「チャンネルNECO」「レインボーチャンネル」放送開始。 10月、日活本社は文京区本郷三丁目28番12号の元プリント倉庫跡に移転。にっかつビデオ、にっかつ児童映画、にっかつ映像コミュニケーションズも同時に本郷に移転。
  • 1992年 - にっかつ80周年記念超大作『落陽』制作。監督を原作者に任せ、宣伝プロデューサーに水野晴郎を迎え、30億といわれる巨額の制作費にかかわらず、記録的な不入りで、にっかつ倒産の引き金を引いたと言われる。9月8日創立80周年記念パーティがホテルニューオータニで催される。財津和夫作詞作曲の80周年記念歌が披露され、司会は草野仁が務めた。
  • 1993年7月1日 - 株式会社にっかつのほか、100%子会社の株式会社にっかつ撮影所、にっかつビデオ株式会社、にっかつ中央興業株式会社、にっかつ芸能株式会社、株式会社函館にっかつゴルフクラブ、株式会社にっかつ映像コミュニケーションズの七社が東京地方裁判所民事第八部に会社更生法の適用を申請し倒産。7月6日に保全管理命令が下り、保全管理人に三宅省三弁護士が選任される。9月30日に更生手続開始決定がなされ、三宅省三弁護士が法律家管財人ナムコ中村雅哉会長兼社長が事業管財人となり、再建活動に入る。後ににっかつ児童映画は破産申立を行ない、清算する。函館ケーブルテレビ放送株式会社(現・ニューメディア函館センター)の経営から撤退する。三宮にっかつ閉館。
  • 1995年 - 「ロッポニカ」の一本として製作後、オリジナルビデオシリーズとして好評を博していた「首都高速トライアル」シリーズが、撮影時に制限速度を超過したという道路交通法違反の嫌疑のため、本社、撮影所が警視庁の家宅捜索を受ける。ムービーランド建設予定地として購入していた千葉県市原市の土地を売却。阪神淡路大震災で被災した神戸国際にっかつ劇場閉館。
  • 1996年 - 更生計画認可。倒産当時145億2537万7950円あった資本金を100%減資し、新資本金30億円とし、事業管財人の中村雅哉が社長に就任。名実共にナムコグループ入りする。社名を日活株式会社に戻す。本店所在地を港区赤坂9丁目6番24号から文京区本郷3丁目28番12号に移転。
  • 1997年3月15日 - 日活ホームページ開設。6月より社章が変更される(ナムコカラーの臙脂色をバックにNマークを筆で描いたようにデザインし、社名をやや幅広の明朝体表記としたもの)。10月に日活復活第一作「愛する」が封切られる。[要出典]
  • 1998年8月1日 - シネロマン博多が「シネ・リーブル博多」と館名変更。
  • 1999年5月1日 - シネ・リーブル博多駅オープン。

2000年代

  • 2000年2月28日 - 従業員持株会発足する。キャッチフレーズは「第二のヤフー株を目指して」だった。4月29日 シネ・リーブル池袋オープン。12月 シネ・リーブル梅田オープン。
  • 2001年2月 - 「日活ロマンポルノ館」オープン。7月東京地裁にて更生手続終結決定。9月15日 シネ・リーブル神戸オープン。
  • 2002年1月30日 - 横浜市中区伊勢佐木町所在の横浜オスカー・横浜オスカー2閉館。
  • 2003年8月 - 大宮東映オスカー閉館。
  • 2005年 - 佐藤直樹が社長に就任。早期退職優遇制度(希望退職)を実施。また、赤坂九丁目6番24号のロッポニカビルが、株式会社マルから株式会社ヤング・コミュニケーションに売却される。 この他、シネリーブル千葉ニュータウン開場(8月6日)。ナムコ保有の日活株式が一部を除き売却され、インデックスグループに入る。その後スカイパーフェクト・コミュニケーションズ(後のスカパーJSAT)が発行済株式の15%をインデックスから取得。
  • 2006年10月 - 社章を現行デザインのものに変更。
  • 2007年2月 - 同じインデックスグループにあった映画配給会社メディア・スーツを日活の子会社化後吸収合併。10月 フェイスアミューズソフトエンタテインメントが設立した映画製作会社「デスペラード」との共同出資により「株式会社ジャンゴフィルム」を設立。
  • 2008年12月 - 東京テアトル株式会社との間で映像事業における業務提携について合意に達し、翌年4月から3年の間、全映画館の経営を委託することが決定される。
  • 2009年 - 「ヤッターマン」を製作し、3月松竹と共同配給。30億円を超えるヒットを記録するも、2009年7月期決算では12億を超える赤字を計上する。また、ジャンゴフィルムのパートナーであるデスペラード社が同じフェイスグループの「ギガネットワークス」と合併しフェイス・ワンダワークスとなり、映画製作から撤退したことにより、ジャンゴフィルムが日活の100%子会社となる。4月 インデックスの所有していた株式が日本テレビ放送網などへ売却されたことで、日テレの関連会社となる。12月 美術子会社の「アートインプレッション」、撮影所管理業務の「日活スタジオサービス」設立。

2010年代

  • 2010年 - 日本映画初の「海外公開専用」レーベル「SUSHI TYPHOON」を立ち上げ、第1弾作品「エイリアンVSニンジャ」を公開。
  • 2011年3月11日 - 東日本大震災でシネリーブル千葉ニュータウンが被災。第6・第7シアターの天井が崩落して、営業休止[注 5]。5月13日 シネ・リーブル博多駅 閉館。9月 アートインプレッション解散。美術業務は日活スタジオサービスに引き継がれる。
  • 2012年 - 会社創立100周年を迎える。100周年を記念して日活に所縁のある俳優、監督らの手型モニュメントが制作され、9月10日に除幕式が行われた。11月1日、シネマックス千葉ニュータウンが正式に千葉興行に営業譲渡される。
  • 2013年7月1日 - シネ・リーブル神戸が東京テアトルに譲渡される。譲渡にかかわった社員は表彰された[要出典]
  • 2014年 - 日本テレビ100%子会社の日テレアートが、撮影所の美術部門を担当。
  • 2016年1月26日 - ゲームレーベル「SUSHI TYPHOON GAMES」を立ち上げ、ゲーム事業に参入することを発表[21]
  • 2019年5月 - 他社の参加も可能とした、撮影・ポスプロスタジオの予約サイト「match85(マッチバコ)」を運用開始。
  • 2020年10月 - XR技術を使ったバーチャルプロダクション事業のため、日活・デジタル・フロンティアAOI TYO Holdingsの共同出資で「バーチャル・ライン・スタジオ株式会社」を設立。



注釈

  1. ^ 戦前の日活製作の映画を他社に配給委託することもあった[8]
  2. ^ 井上雅雄によれば、「五社協定」は日活の製作再開の発表前に検討・作成されていたが、結果的に「日活による引抜き防止策」として機能することになった[14]
  3. ^ 『戦後映画の産業空間: 資本・娯楽・興行』では「野口博志」が「野口博司」になっている。
  4. ^ にっかつの名前がスクリーンに登場するのは1979年(昭和54年)以降である。
  5. ^ その後千葉興行株式会社に経営委託され「シネマックス千葉ニュータウン」と改称し再開業している。

出典

  1. ^ a b c d e f 日活株式会社 第169期決算公告
  2. ^ 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)
  3. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社)
  4. ^ 日活五十年史(日活株式会社)
  5. ^ a b 会社案内:沿革”. 日活公式サイト. 日活. 2020年2月16日閲覧。
  6. ^ 東宝(株)『東宝五十年史』(1982.11)”. 渋沢社史データベース. 渋沢栄一記念財団. 2020年2月16日閲覧。 “昭和20年(1945)4月24日 大映の直営館、日活へ譲渡成立調印”
  7. ^ 松竹『松竹九十年史』松竹、1985年12月、674頁。全国書誌番号:87001945
  8. ^ a b 井上 2016, p. 16.
  9. ^ a b c d 井上 2016, p. 18.
  10. ^ a b c 井上 2016, p. 17.
  11. ^ 井上 2016, pp. 18 - 19.
  12. ^ 井上 2016, p. 19.
  13. ^ 井上 2016, p. 28.
  14. ^ a b 井上 2016, p. 22.
  15. ^ a b 井上 2016, p. 29.
  16. ^ 井上 2016, p. 31.
  17. ^ 日テレのニュースリリース日活のニュースリリース
  18. ^ レスキューファイアー日活制作担当に関するソースはタカラトミーのニュースリリースより https://www.takaratomy.co.jp/company/release/press/pdf/p090114.pdf
  19. ^ フライデー (2012年5月26日). “「創業100年企業の血脈」第五回 日活「倒産危機を救った元ホテルマン社長の奇策」”. 現代ビジネス. p. 2. 2020年8月18日閲覧。
  20. ^ THE PAGE (2017年12月3日). “日活株買い大勝利、旭硝子大仕手戦と小豆売りでまさか敗北 山崎種二(下)”. Yahoo!ニュース. 2020年8月18日閲覧。
  21. ^ 日活、ゲーム事業参入へ 新レーベル「SUSHI TYPHOON GAMES」始動”. シネマトゥデイ (2016年1月26日). 2016年1月26日閲覧。






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