恵帝 (西晋)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 02:16 UTC 版)
宗室
后妃
子女
- 謝玖との子
- 愍懐太子 司馬遹
- 賈南風との子女
- 河東公主 - 彼女が病気となると、賈南風は祈祷師に看させた。祈祷師は政令を緩和すべしと答えたので、賈南風は司馬衷の名をもって大赦を下した。賈南風の死後、孫秀の子孫会に嫁いだ。
- 始平公主
- 弘農公主 司馬宣華 - 傅祗の子である傅宣に嫁いだ。永嘉の乱により懐帝が前趙に捕らえられると、傅祗の命により司馬宣華は懐帝奪還の為の義軍を募ったという。
- 哀献皇女 司馬女彦 - 8歳の時亡くなった。非常に聡明であり、書学に長けており詩文を書くことが出来たという。賈南風は彼女を寵愛していたので、死の間際に公主に封じようとしたが、司馬女彦は「我は幼く、成人しておりません。公主の礼は不用です」と言い残した。彼女の死後、賈南風は非常に悲しみ、遺言通り公主には封じなかったが、長公主の礼儀をもって喪を執り行った。
- 清河公主 - 『太平御覧』では、羊献容の娘とされている。永嘉の乱が起こると呉興に売り飛ばされ、銭温という人物の奴隷とされた。東晋が成立すると彼女は助け出され、臨海公主に改封されて宗正曹統に嫁いだ。
- ^ 王夫之『読通鑑論』巻12より。原文では「惠帝之愚,古今無匹,國因以亡。(恵帝の愚は古今匹無し、国因って以て亡ぶ。)」
- ^ a b c d e 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P54
- ^ a b c 千田豊 2019, p. 37.
- ^ a b c d 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P57
- ^ a b c 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P47
- ^ a b c d e f g h i 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48
- ^ a b c 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58
- ^ a b 千田豊 2019, p. 43.
- ^ alt.usage.english FAQ quoting Gregory Titelman, Random House Dictionary of Popular Proverbs & Sayings, 1996, who in turn cites Zhu Muzhi, head of the Chinese Human Rights Study Society
- ^ 福原啓郎『魏晋政治社会史研究』京都大学学術出版会、2012年 P218-219・246-247
- ^ 王『読通鑑論』巻12
- ^ 田中芳樹『中国武将列伝』〈上〉 中央公論新社(中公文庫)、1999
- 恵帝 (西晋)のページへのリンク