名人戦 (将棋) 変遷

名人戦 (将棋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/04 09:53 UTC 版)

変遷

当初は1期2年であり、2年間かけて挑戦者を決め、偶数年に番勝負を開催していた。ただし、1938年、1944年、1946年は挑戦者不在などの理由により番勝負が開催されず、このうち1938年と1946年は、前年である奇数年のうちに名人が決まった。各期ごとに試行錯誤が重ねられ、挑戦者決定リーグの開催方式が変更された。

1946年に順位戦が始まったことで、1947年以降は1期1年となり、挑戦者決定方法も固定された。

第1期名人戦

第1期(番勝負:1938年(開催されず))
最初の実力制名人は、当時の最高段位であった八段の全棋士が名人候補者決定リーグに参加し、リーグを勝ち抜いた名人候補者2名による六番勝負(3勝3敗の場合は候補者決定リーグ1位の者が名人)で争うことになった。当初は、1935年から2年間のリーグを行い、1937年に番勝負を開催する予定だったが、神田事件(後述)によってリーグが半年間中断され、番勝負は1938年に変更された。
名人候補者決定リーグは、八段全棋士が総当たりで2局ずつを指す特別リーグ戦の結果と、通常の棋戦における対八段・七段戦(普通戦)の結果をそれぞれ点数に換算して合算することで順位を決した(普通戦では、勝敗だけでなく、相手の段位や手合によって点数が定められた)。ただし、候補者決定リーグにおける1位と2位の点差が8点を越える大差となった場合には、2位の者の候補者資格を認めず、番勝負は行わずに1位の者が名人になることとしていた。また、第1期のリーグによる点数が40点を下回った棋士は、次期(第2期)の挑戦者決定リーグ参加権が停止されることとなっていた(第3期から復帰が可能)。
名人候補者決定リーグの当初の参加者(八段)は、土居市太郎大崎熊雄金易二郎木見金治郎花田長太郎木村義雄金子金五郎(八段昇段日順)の7名だった。しかし、神田辰之助の八段昇段(すなわちリーグ参加権)の是非を巡って紛糾し、神田の昇段を主張する棋士らが一時連盟から脱退する騒ぎとなった(神田事件)。結果的に連盟は神田の八段昇段を追認して決着。神田と萩原淳[8]の新八段2名が加わり、9名でリーグを行うこととなった。
リーグ戦の結果、1937年12月5日から[9]12月6日の最終局で木村が花田に勝利したため、リーグ戦の成績は木村と花田が13勝2敗で並んだが、点数が1位の木村が103.7点、2位の花田が95.6となり、8.1点差という大差が付いたため、規定により番勝負は実施されず、木村が名人につくことなった。翌1938年2月11日に、木村の名人就位式が実施された。また、木見と大崎が規定の40点を下回り、第2期の挑戦者決定リーグ参加資格がなくなった(なお、大崎は病気による途中棄権であり、第2期リーグの途中で死去したが[10]、木見は規定により第3期からリーグに復帰した)。

順位戦創設以前(第2期から第5期まで)

第2期(番勝負:1940年)
第2期からは、現在でもお馴染みの挑戦者決定リーグで選ばれた挑戦者が七番勝負で名人に挑戦する形式となる。挑戦者決定リーグは、前期のリーグで40点以上を獲得した名人以外の八段6名に加えて、新八段1名、八段格として特例で参加が認められた阪田(坂田)三吉(名人僭称問題によってそれまで連盟に所属していなかった)、七段全員による予選(総当たり2局ずつ)を勝ち抜いた1名の9名に参加資格が与えられた。
挑戦者決定リーグは、第1期にあった普通戦が廃止され、総当たりのリーグ戦を2回(第1次・第2次)行い、その合計の勝敗で挑戦者を決した。なお、第1次リーグで1勝以下の成績の者(花田が該当)は第2次リーグに参加できず、失格となった。番勝負は持ち時間各15時間の3日制にて実施された[11]
土居が13勝0敗で名人挑戦を決めたものの、番勝負で木村に敗退した。なお、特例として参加した阪田は7勝8敗であった。
第3期(番勝負:1942年)
挑戦者決定リーグは、八段の全棋士10名に、五段 - 七段の予選を通過した2名を加え、12名で行われた。
第3期は、2段階のリーグ戦によって挑戦者が決められることになった。まず、12名を4名ずつ3組に分けてリーグ戦を行った。各組の1位3名(土居・神田・渡辺)に加え、各組2位4名による敗者復活リーグを勝ち抜いた1名(塚田)の計4名により、決勝リーグを行った。決勝リーグを制した神田が挑戦者となったが、番勝負で木村に破れた。
第4期(番勝負:1944年(開催されず))
挑戦者決定戦は、八段の全棋士12名に加え、五段 - 七段の予選を通過した4名の合計16名で行われた。
これまでのリーグ戦方式を改め、半年ごと(2年間なので都合4回)に予備資格者決定トーナメントを行うことになった。各トーナメントの勝者が予備資格者として名人(木村義雄)と半香落ち(香落ちと平手を交互に指す)の手合いで予備手合三番勝負を戦い、これに勝ち越せば名人挑戦者として改めて名人戦七番勝負に進むことができる。
しかし、予備手合は4回とも木村の勝ちとなり、名人挑戦資格者が出ず、七番勝負を行わずに木村の防衛となった。
  1. 1943年前期 木村義雄 2-0 萩原淳
  2. 1943年後期 木村義雄 2-1(1千日手) 大野源一
  3. 1944年前期 木村義雄 2-0 花田長太郎
  4. 1944年後期 木村義雄 2-0 坂口允彦
第5期(番勝負:1946年(開催されず))
戦時下につき、トーナメントが廃止され、近年の成績により予備資格者の7名が選出された。この7名が順に木村と予備手合三番勝負を行い、勝ち越した者が正式な挑戦者として名人戦七番勝負に進出することとなった[12]
しかし、戦争激化により、予備手合が中止され、特例として木村義雄の名人防衛の決定がなされた。

順位戦創設以降(第6期から)

第6期(1947年)
前年から順位戦が開始され、A級順位戦の優勝者が名人挑戦資格を得るようになった。
この年のA級順位戦は八段棋士14名によるリーグ戦(持ち時間は各7時間)で、順位が決定していなかったため、同率首位となった塚田正夫・大野源一・萩原淳の3者によるプレーオフが行われ、塚田が挑戦資格を得た。
この期より番勝負のシステムが、それまでの3日制から「持ち時間各8時間の1日制」に変更された(封じ手は行われない)[13]
第7期(1948年) - 第9期(1950年)
順位戦A級の上位3名と、B級の優勝者による4名がパラマス式トーナメントを行い(A級3位とB級優勝者が対局し、勝者がA級2位と、その勝者がA級1位と対局する)、トーナメント優勝者が名人挑戦資格を得る。
第7期では、第2期順位戦でB級七段だった大山康晴がパラマス式トーナメントを勝ち抜いて挑戦資格を得ており、名人戦唯一の七段の挑戦者となっている。
1949年の順位戦実行中に、日本将棋連盟と毎日新聞との交渉が決裂し、第9期からの名人戦の主催者は朝日新聞となった[14]
なお第9期から、番勝負のシステムが「持ち時間各10時間の2日制」に再度変更されている[15]
第10期(1951年) - 第26期(1967年)
A級順位戦の優勝者が挑戦資格を得るように改められた。
第27期(1968年) -
持ち時間を「順位戦は各6時間、番勝負は各9時間」に短縮。以後現在までほぼ同じ形式を踏襲している。



  1. ^ 天狗太郎『昭和「将棋指し」列伝』(時事新報社)P.24
  2. ^ 天狗太郎『昭和「将棋指し」列伝』(時事新報社)P.24
  3. ^ 『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』(林裕)P.46
  4. ^ 関根金次郎声明・『将棋世界「将棋名人戦」~昭和・平成 時代を映す名勝負~』(マイナビ出版刊行)P.37
  5. ^ 『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』(林裕)P.46
  6. ^ 第74期名人戦・開催地公募のお知らせ日本将棋連盟・2015年8月21日閲覧
  7. ^ a b 名人位の賞金総額を推計する - 将棋ペンクラブログ・2013年12月20日
  8. ^ 萩原は、神田を支持した花田・金子が脱退した際に欠員補充として昇段した。なお、神田については脱退時に八段昇段したとする主張が連盟によって追認されているため、萩原の昇段日は神田よりも後である。
  9. ^ 週刊将棋編「名局紀行」毎日コミュニケーションズ P.101
  10. ^ 『将棋名人戦 ~昭和・平成 時代を映す名勝負~』(将棋世界編集部編、マイナビ、2014年)p.38
  11. ^ 『将棋名人戦』p.43
  12. ^ 将棋世界「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄vs倉島竹二郎」1985年7月。
  13. ^ 『将棋名人戦』p.43
  14. ^ 加藤治郎『昭和のコマおと』(旺文社文庫)P.161
  15. ^ 『将棋名人戦』p.49
  16. ^ 将棋世界2018年3月号。
  17. ^ 八段格として特例による参加。なお、現役当時の表記は阪田ではなく坂田。
  18. ^ 予選ではなく近年の好成績により七段ながらリーグ参加権が認められた。
  19. ^ 五番勝負
  20. ^ 将棋ソフト不正使用疑惑騒動により途中休場。三浦の地位保全のため、翌76期は三浦を含む11名で行われた。
  21. ^ 磯辺真季は、1995年1月 - 3月のNHK将棋講座で佐藤康光のアシスタントを務めている。
  22. ^ 2011年名人戦の司会兼聞き手のアナウンサーは、第2局から局順に、堀伸浩長野亮後藤理吉岡大輔泉浩司・長野亮(NHK囲碁と将棋 タイトル戦中継 2011年6月23日閲覧)。
  23. ^ 史上初!!全5対局完全生中継「将棋界の一番長い日」(囲碁・将棋チャンネル)
  24. ^ 加藤治郎『昭和のコマおと』(旺文社文庫)P.159-160
  25. ^ 週刊将棋編『将棋ファン読本』(毎日コミュニケーションズ)P.15 井口昭夫「不死鳥・大山の将棋人生」
  26. ^ 田丸昇『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P.65
  27. ^ 田丸昇『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P.66
  28. ^ 田丸昇『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P.70




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