南京安全区国際委員会 南京安全区国際委員会の概要

南京安全区国際委員会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/15 16:46 UTC 版)

南京安全区は第二次上海事変の上海南市安全区に倣って設置された[2]が、上海の安全区と異なり、非公認であった[3]。池田悠は、宣教師たちの安全区設置の目的は、区内で中国軍の支援保護を実施し、中国軍・政府から布教の便宜を得たいというものであり[4]。その為、約束された中立化・非軍事化は果たされず、戦闘中は安全区内に中国軍の砲台の存在を許し、戦闘後は中国兵の潜伏を許していたと主張している[4]。また、南京安全区が日本から承認されず、非公式なものであったのは、上海安全区とは異なり中立性に疑義があったためとしている(池田は、ラーベの日記や国際委員会のメンバーであったシールズの証言により、実際に安全区内の砲台が使用されていたことを示している)[4]

沿革

1937年

  • 8月13日 - 10月26日の第二次上海事変では上海に住むフランス人のカトリック教会ロベール・ジャキノ・ド・ベサンジュ(Robert Jacquinot de Besange)神父は避難民のための上海南市難民区の設置を日中双方に提示し了承された[5]。フランス人3名、イギリス人1名、スウェーデン人1名から成る南市避難民救助国際委員会が設置され、区域内に武器を携帯する者が在住しないことを宣誓した。日本側は区域内の非戦闘性が持続する限り攻撃しないと約束した[6]。上海市長の受諾をもって1937年11月9日正午から正式に認められた[7]
  • 10月中旬 金陵大学のマイナー・シール・ベイツルイス・S・C・スマイスロバート・O・ウィルソン英語版、W・プラマー・ミルズらが、同大学教授で社会学者のロッシング・バックの邸宅を借りて共同生活を始める。この頃から南京で難民を救済する施設を作る計画を話し合う[8]。南京安全区はこれら米国人宣教師たちにより上海南市難民区に倣って提案された[2]
  • 11月17日 ベイツ、スマイス、ミルズの3人は、アメリカ大使館員ウィリヤ・R・ペックに、南京に安全区を設置する計画を説明し、中華民国日本両政府に認知させるための仲介役を依頼する。同日、ミニー・ヴォートリンからも、同趣旨の手紙を受け取る。このことを受け、ペックは、国民政府立法院委員長・孫科、抗戦最高統帥部第二部長・張群、南京市長・馬超俊らに非公式に伝えた[9]
  • 11月18日 宣教師団内部の、安全区の設立計画が報告された会合で、安全区発案者であるミルズ宣教師が、'try to encourage and comfort the Chinese army' と発言し、宣教師内部での中国軍支援保護方針が明らかにされた。そして同日、蔣介石の腹心である黄仁霖大佐が呼び出され、この件は中国軍にも伝えられた。これらは同日のミニー・ヴォートリン宣教師の日記に記載されている[10]
  • 11月19日 南京安全区国際委員会が結成され、同月22日、委員長にジーメンス南京支社の支配人でナチ党南京副支部長でもあるジョン・H・D・ラーベが就く。
  • 12月8日 『告南京市民書』を配布し、安全区への市民の避難を呼びかける。日本軍入城前までに国際委員会は残留していた南京住民(一説には20万人余りともいわれるが、諸説ある。)のほぼ全員を安全区に収容したため、安全区以外の場所には住民はほとんどいない状態となった[11]とする説がある。もっとも、当時の中国では軍閥どうしの戦争のイメージで人がいるとそれを憚って掠奪等が少ないため、ひそかに家に残っていた人間もいたとされる。また、安全区外のイスラム寺院や仏教寺院に安全区同様に避難していた人間もいたという証言もある。
  • 12月13日 南京陥落。

1938年

  • 1月末(池田悠によれば2月4日[12]) 日本軍、安全区の難民に帰宅命令[13]。池田によると、これ以降難民の帰宅が進んだ[12]
  • 2月18日 南京安全区国際委員会が南京国際救済委員会に改称[14][13][15]。南京安全区消失[13]
  • 5月 最後の難民キャンプの閉鎖[13]

メンバー

国際委員会の委員15人のの序列は徐淑希編Documents of the Nanking Safety Zoneによる[16]

名前 国籍 職業・役職
ジョン・ラーベ ドイツ 南京安全区国際委員会委員長。ジーメンス社南京支社の支配人。
ルイス・S・C・スマイス アメリカ 書記。南京国際赤十字委員会委員。金陵大学社会学教授。『南京地区における戦争被害』を発表。
P.H.Munro-Faure イギリス Asiatic Petroleum.co.
ジョン・マギー アメリカ 聖公会伝道団宣教師。南京国際赤十字委員会委員長。16ミリフィルムで被害現場を撮影。
P.R.Shields イギリス International Export co.
J.M.Hansen オランダ Texas Oil Co.
G.Schultze Pantin ドイツ Shinning Trading co.
Iver Mackay イギリス Butterfield & Swire
J.V.Pickering アメリカ Standard-Vacuum Oil co.
エドワルト・スペルリング英語版 ドイツ Shaghai Insurance(上海保険会社)の南京支店長
マイナー・シール・ベイツ アメリカ 南京大学歴史学教授、博士。中華民国政府顧問[17]
W.P.Mills アメリカ Northern presbyterian mission(長老派教会)
J.Lean イギリス Asiatic Petroleum.co.
C.S.Trimer アメリカ University Hospital(大学病院)
Charles Riggs アメリカ 南京大学。

また、笠原によれば、南京安全区国際委員と南京国際赤十字委員は日本大使館に提出した名簿では区別しているが、2つの委員会を届けるための形式的な処置で実際は本部も同じであり、共同活動をしていたとして以下も安全区委員とする[18]

ジョージ・アシュモア・フィッチ
ニューヨークYMCA国際委員会書記。中国の青年をYMCAが組織した励志社の顧問として南京に滞在。
アーネスト・H・フォースター英語版
南京国際赤十字委員会書記。米国聖公会宣教師。
ジェームズ・H・マッカラム(James Henry McCallum)
南京国際赤十字委員会委員。連合キリスト教伝道団宣教師。南京大学病院理事。手記と手紙は東京裁判に提出された[19][20]
ミニー・ヴォートリン
南京国際赤十字委員会委員。金陵女子文理学院教授。宣教師。学院に婦女子のための難民キャンプを開設し、その責任者として強姦や拉致から大勢の女性を保護した。
ロバート・O・ウィルソン英語版
南京国際赤十字委員会委員。金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師。日本軍の南京占領時、唯一の外科医師として鼓楼病院で医療活動に従事し、続々と病院に運び込まれる負傷者の治療にあたった。

注釈

  1. ^ バージニア大学TOKYO WAR CRIMES TRIAL DIGITAL COLLECTIONには「Documents of the Nanking Safety Zone. Edited by Shuhsi Hsu, PhD, sometime adviser to the Ministry of Foreign Affairs. Prepared under the Auspices of the Council of International Affairs, Chungking." Printed by Kelly Walsh, Limited, Shanghai-Hong Kong-Singapore. 1939."」と説明してある。またブリティッシュコロンビア大学が公開しているDocuments of the Nanking Safety Zoneでも同様の紹介が記載されている。

出典

  1. ^ 笠原十九司 2005
  2. ^ a b c d 冨澤繁信 2007, p. 42
  3. ^ マルシア・リスタイーノノルウェー語版 (2008) (英語). Jacquinot Safe Zone: Wartime Refugees In Shanghai. Stanford University Press. p. P81 
  4. ^ a b c 池田悠 2018
  5. ^ WAR IN CHINA: Safety Zones,7 November 1938,TIME.
  6. ^ 『東京朝日新聞』 1937年11月3日付朝刊 3面
  7. ^ 『東京朝日新聞』 1937年11月9日付朝刊 2面
  8. ^ 笠原十九司 2005, p. 78
  9. ^ 笠原十九司 2005, pp. 80–82
  10. ^ 池田悠 (2020). 一次史料が明かす南京事件の真実ーアメリカ宣教師史観の呪縛を解く. 展転社. pp. 54-58,76 
  11. ^ 冨澤繁信 2007, pp. 10–11
  12. ^ a b 池田悠 (2020). 一次史料が明かす南京事件の真実ーアメリカ宣教師史観の呪縛を解く. 展転社. p. 69 
  13. ^ a b c d 南京安全区と国際的大救援”. 北京週報日本語版 (2007年12月). 2022年9月29日閲覧。
  14. ^ a b 冨澤繁信『原典による南京事件の解明』
  15. ^ 徐淑希編Documents of the Nanking Safety Zone,文書69号。
  16. ^ バージニア大学所蔵原稿p.4.
  17. ^ 水野靖夫 2006, p. 64
  18. ^ 笠原十九司 2005, p. iii,v-ix
  19. ^ [1]Yale Univ.library.
  20. ^ 手記Virginia Historical Society,IPS Doc. No. 2466, Exhibit No. 309.
  21. ^ a b 冨澤繁信 2007, p. 10
  22. ^ 『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』 1巻、青木書店、1992年10月15日、559頁。 
  23. ^ a b c d 冨澤繁信 2007, p. 36
  24. ^ 冨澤繁信 2007, p. 37
  25. ^ a b 東中野修道 1998
  26. ^ 冨澤繁信 2007, pp. 36–37
  27. ^ a b c 冨澤繁信 2004


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