前秦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 03:21 UTC 版)
社会
政治
苻堅にはもともと漢学の素養があったため、王猛を重用して漢族伝統の治政方針を採用した[10]。中国古代において政治を遂行したとされる明堂を建設したり、漢族王朝において最も重要な祭祀とされる都の南で行う儀礼を断行し、皇帝が行う農耕儀礼である籍田の親耕を行い、その后に養蚕の礼を行わせるなど、中国における伝統的国家儀礼を相次いで導入した[24]。前燕を滅ぼして中原の覇者になると苻堅の儒教的理念を用いた国家建設と風俗の整斉はさらに熱を帯びるようになり、曹魏や西晋時代における士族階級の戸籍を復活した上で彼らを前秦王朝に向けて人心収攬する事に勤めた[24]。
統治機関
苻堅は当時混乱していた華北統一のため、諸民族融合政策を採用した。すなわち自らが征服した鮮卑や羌などを都の周辺に移住せしめて重用し、自らの族である氐を中央から新たに支配領域となった地域へと移住させた[24]。この政策は前秦の根幹を成す氐の集団としての紐帯を弱体化させ、結果的に前秦王朝解体へとつながる事になった[25]。王猛や苻融はその事を認識して苻堅を諌めたが聞き入れられなかった[26][25]。
ただ、当時の五胡政権に共通して言える事であるが、彼らの王権は一君万民的な構造によって成立していたわけではなく、王族や部族長によって率いられた諸集団の連合政権として成立していた[27]。前秦の場合は氐を中核として匈奴や鮮卑を支配し、さらに漢族を支配するという連合国家として成立しており、王権を強化しようとしてもその成長を阻害する要因が数多く存在していたのである[27]。ましてや苻堅の場合は現状維持ではなく積極的な勢力拡大に出たため、当然新たな支配地からの人材や税収、軍事力に資源の獲得は王権の強化のためには必要不可欠であり、そのためにあえて民族融合策を採用していたといえる[27]。とはいえ前秦が滅ぼした旧国の皇族に要職や一軍を与えたため、前秦の中枢部においてすら疑問を感じる者が多かったという[26]。
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