二日市保養所
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関連項目
外部リンク
- ^ 聖福寮(孤児院)の山本良健医師か[2]、あるいは人類学者の泉靖一か[3]。『水子の譜』では田中外四となっている(1979)P.174。
- ^ Watt (2010)では"Seoul Group"と称しているが、医師も「活動家」も含んだグループとする。写真家の飯山達雄が含まれるが、泉靖一の名は出されていない。山本良健医師は含まれている。
- ^ 京城帝国大学医学部卒
- ^ 『局史』では1946年3月~年末まで(9か月の)の統計として380名中、内訳は不法妊娠218、正常妊娠87、性病35、その他45となっている[30][31]。"性病その他の婦人科疾患の患者数も同じ位あったと推定され"[12]とは一致していない。
- ^ 国からの通達というのは、例えば佐賀の場合は 「厚生省(当時)に助教授が招かれ、(中絶手術を行うように)指示があった」という証言がある[32]。
- ^ a b c d e f g 下川正晴『忘却の引揚げ史』(株)弦書房、2017年8月5日、84-85,85,85,50,89,55,82-83,85頁。
- ^ Watt (2010), pp. 15–16.
- ^ 山本 (2015), pp. 81–82.
- ^ a b c d e 「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<2> 医師らひそかに中絶手術」、『読売オンライン 九州発』2006年07月27日
- ^ 『西日本新聞』1977年8月1日、山本 (2015), pp. 81–82の出典
- ^ 上坪 (1979)『水子の譜』、174–176頁。山本 (2015), pp. 81–82およびWatt (2010), pp. 115–116の出典
- ^ "外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、[京城帝大医学部の医師たちの]グループ全体を「在外同胞援護会救療部」に衣替え"[4]。1946年2月、「聖福病院」という診療所を聖福寺 (福岡市)の地所に開設した。
- ^ 博多引揚援護局 (1947)『局史』、該当箇所抜粋
- ^ 下川 正晴『忘却の引揚げ史《泉靖一と二日市保養所》』弦書房、2017年7月21日、69頁。
- ^ a b c d e f 藤田繁 編『石川県満蒙開拓史』石川県満蒙開拓者慰霊奉賛会、1982年9月10日、91,87,87,88,87,90,90-91頁。
- ^ 高杉志緒 2010, p. 79.
- ^ a b c 中村粲「戦争と性-ある終戦処理のこと-」(『正論』1998年5月号所収)、63–64頁
- ^ a b c 中村粲「戦争と性-ある終戦処理のこと-」(『正論』1998年5月号所収)、62頁
- ^ 飯山達雄『遥かなる中国大陸写真集3敗戦・引揚げの慟哭』国書刊行会、昭和54年10月20日発行、145頁。129.帝王切開手術を受ける。
- ^ 飯山達雄『遥かなる中国大陸写真集3敗戦・引揚げの慟哭』国書刊行会、昭和54年10月20日発行、146頁。130.不法妊娠の堕胎手術。
- ^ Watt (2010), p. 116, note 51
- ^ 『西日本新聞』1946年7月17日付に呼びかけ広告。上坪 (1979)『水子の譜』P.181に新聞の原文を掲載。[16]
- ^ a b c d e f g h i j k l m 上坪隆『水子の譜』(株)現代史出版会、1979年8月10日、176,177,213-214,214,214,215,215,215,201-202,210-211,181-183,237頁。
- ^ 山本 (2015), p. 79.
- ^ a b 山本 (2015), p. 81.
- ^ a b c “【戦後75年】秘密の中絶施設、二日市保養所(福岡県筑紫野市)”. 産経新聞社. 2023年2月23日閲覧。
- ^ “引揚途中の強姦被害者47人 加害男性の国籍は朝鮮、ソ連など”. SAPIO2015年7月号、NEWSポストセブン. (2015年6月19日). オリジナルの2023年9月22日時点におけるアーカイブ。 2023年9月23日閲覧。
- ^ a b 高杉志緒 2010, p. 80-81.
- ^ a b 松田澄子「満洲へ渡った女性たちの役割と性暴力被害」『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第45号、山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所、2018年3月、26,23、CRID 1050001202927482112、ISSN 0386-636X、NAID 120006424554。
- ^ a b c “「引き揚げ後の中絶手術」”. NHKアーカイブス. NHK. 2023年11月20日閲覧。
- ^ 「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<3> 麻酔なしの中絶手術」、『読売オンライン 九州発』2006年08月03日
- ^ 山本 (2015), p. 82:「二日市保養所は、1947年秋に閉所になるまでの1年半ほどの間に「四六二名」(千田夏光『皇后の股肱』 1977:81)、「四、五〇〇件」(『朝日新聞』 1995.8.9)の中絶が行われたとされる」
- ^ 「帝国日本の戦時性暴力」, p. 36.
- ^ 下川正晴「封印された引揚女性の慟哭 「二日市保養所」70年目の記録」(『正論』2016年7月15日所収)
- ^ 日置, 英剛『年表太平洋戦争全史』国書刊行会、2005年、780頁 。
- ^ 木村 (1980), p. 95.
- ^ 「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<4>日誌につづられた悲劇」、『読売オンライン 九州発』2006年08月10日
- ^ 上坪 (1993)、203頁。
- ^ 上坪 (1993)
- ^ “舞鶴引揚記念館”. 京都教育大学 高見. 2023年9月29日閲覧。
- ^ “舞鶴市の引揚の記録と引揚船の詳細”. 舞鶴散歩人(HN). 2023年9月29日閲覧。
- ^ 上坪 (1993), pp. 21: 「活動の中心は文化人類学者の泉靖一氏であった。彼はやがて「在外同胞援護会救療部」という組織を作りあげていく」
- ^ 中村粲「戦争と性-ある終戦処理のこと-」(『正論』1998年5月号所収)、59頁
- ^ 『ソ連兵へ差し出された娘たち』(株)集英社、2022年1月30日、175-177,179頁。
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