二日市保養所 患者の収容

二日市保養所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/24 05:35 UTC 版)

患者の収容

博多港では、博多引揚援護局が、博多検疫所および女子健康相談所を1946年4月25日に設置し、妊娠、違法妊娠、性病の検査・問診を行い、選別された対象者を国立福岡療養所や二日市保養所に送致していた[19]。当初は自己申告または一目で明らかな妊婦を検診していたが、それではすべてを把握できないということで、14歳以上すべての女性を検査する方針に変更になり、そのために博多の現場には婦人検診室も設けられたもいう[20]。1946年3月の婦人健康相談所の開設当初から、15~55歳の引揚女性は全員がそこに来ること、そこを通らなければ引揚証明書がもらえないことになっていたとの主張もある[10]

不法妊娠

戦後70年以上経って永尾和夫の纏めた記事では、博多引揚援護局史によるとして、患者の内訳は不法妊娠218人、正常妊娠87人、性病35人という数字を挙げ、不法妊娠をカッコ付きで暴行による妊娠としている[21]

二日市保養所の医務主任だった橋爪将の報告書によると、4月からの施設の本格稼働から約2か月間で、不法妊娠は地区別には北朝鮮24人、南朝鮮14人、満州4人、北支3人、相手男性の国籍内訳は、朝鮮28人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人だった[22]橋爪は、6月10日付の報告書で最も朝鮮人が多いが、これは、これまで朝鮮からの引揚が多かったためで、これから満州からの多数の引揚が開始されるに従い、不法妊娠も増えるだろうとしている。[要出典]

不法妊娠の意味と中絶の実際

二日市保養所に当時九大から派遣された橋爪将医師(京城帝大医学部七期)は、救療部では強姦等による妊娠を不法妊娠と呼んでいたとするが[10]、二日市保養所で看護婦として働いていた村石正子は、正当な婚姻者間の妊娠が正常妊娠で、婚外子の妊娠が不法妊娠と記録される扱いであったことを述べている[23]。研究者の松田澄子は、村石と同様に婚外子の妊娠を不法妊娠としている[24]。ジャーナリストの下川正晴は、不法妊娠の中心をソ連兵・朝鮮人による暴行と考え、正常妊娠における中絶は出産に母体が耐えられない場合に行われたものとしている[1]。しかし、むしろ病気や栄養不良等により衰弱している者の場合は手術前に数日入院させて体力を回復させている[18]。上坪隆もこれらの妊娠を性暴力によるものが中心と考えてはいるものの、正常妊娠における中絶について、当時の状況では子を養うどころではなく、先行き不安から中絶したケースもあったようだとしている[18]。朝鮮から引揚げてそのまま二日市保養所で働いた看護師の吉田ハルヨの証言は、当時の一般的な意識ではむしろ生活困窮のために中絶しなければ暮らしていけないのでそうせざるをえないだろうという感覚であり、そのため被術者が中絶を受入れていたことを述べている[25]


  1. ^ 聖福寮(孤児院)の山本良健医師か[2]、あるいは人類学者の泉靖一[3]。『水子の譜』では田中外四となっている(1979)P.174。
  2. ^ Watt (2010)では"Seoul Group"と称しているが、医師も「活動家」も含んだグループとする。写真家の飯山達雄が含まれるが、泉靖一の名は出されていない。山本良健医師は含まれている。
  3. ^ 京城帝国大学医学部卒
  4. ^ 『局史』では1946年3月~年末まで(9か月の)の統計として380名中、内訳は不法妊娠218、正常妊娠87、性病35、その他45となっている[30][31]。"性病その他の婦人科疾患の患者数も同じ位あったと推定され"[12]とは一致していない。
  5. ^ 国からの通達というのは、例えば佐賀の場合は 「厚生省(当時)に助教授が招かれ、(中絶手術を行うように)指示があった」という証言がある[32]
  1. ^ a b c d e f g 下川正晴『忘却の引揚げ史』(株)弦書房、2017年8月5日、84-85,85,85,50,89,55,82-83,85頁。 
  2. ^ Watt (2010), pp. 15–16.
  3. ^ 山本 (2015), pp. 81–82.
  4. ^ a b c d e 「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<2> 医師らひそかに中絶手術」、『読売オンライン 九州発』2006年07月27日
  5. ^ 『西日本新聞』1977年8月1日、山本 (2015), pp. 81–82の出典
  6. ^ 上坪 (1979)『水子の譜』、174–176頁。山本 (2015), pp. 81–82およびWatt (2010), pp. 115–116の出典
  7. ^ "外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、[京城帝大医学部の医師たちの]グループ全体を「在外同胞援護会救療部」に衣替え"[4]。1946年2月、「聖福病院」という診療所を聖福寺 (福岡市)の地所に開設した。
  8. ^ 博多引揚援護局 (1947)『局史』、該当箇所抜粋
  9. ^ 下川 正晴『忘却の引揚げ史《泉靖一と二日市保養所》』弦書房、2017年7月21日、69頁。 
  10. ^ a b c d e f 藤田繁 編『石川県満蒙開拓史』石川県満蒙開拓者慰霊奉賛会、1982年9月10日、91,87,87,88,87,90,90-91頁。 
  11. ^ 高杉志緒 2010, p. 79.
  12. ^ a b c 中村粲戦争と性-ある終戦処理のこと-」(『正論』1998年5月号所収)、63–64頁
  13. ^ a b c 中村粲戦争と性-ある終戦処理のこと-」(『正論』1998年5月号所収)、62頁
  14. ^ 飯山達雄『遥かなる中国大陸写真集3敗戦・引揚げの慟哭』国書刊行会、昭和54年10月20日発行、145頁。129.帝王切開手術を受ける。
  15. ^ 飯山達雄『遥かなる中国大陸写真集3敗戦・引揚げの慟哭』国書刊行会、昭和54年10月20日発行、146頁。130.不法妊娠の堕胎手術。
  16. ^ Watt (2010), p. 116, note 51
  17. ^ 『西日本新聞』1946年7月17日付に呼びかけ広告。上坪 (1979)『水子の譜』P.181に新聞の原文を掲載。[16]
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m 上坪隆『水子の譜』(株)現代史出版会、1979年8月10日、176,177,213-214,214,214,215,215,215,201-202,210-211,181-183,237頁。 
  19. ^ 山本 (2015), p. 79.
  20. ^ a b 山本 (2015), p. 81.
  21. ^ a b c 【戦後75年】秘密の中絶施設、二日市保養所(福岡県筑紫野市)”. 産経新聞社. 2023年2月23日閲覧。
  22. ^ “引揚途中の強姦被害者47人 加害男性の国籍は朝鮮、ソ連など”. SAPIO2015年7月号、NEWSポストセブン. (2015年6月19日). オリジナルの2023年9月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20230923002747/https://www.news-postseven.com/archives/20150619_328325.html?DETAIL 2023年9月23日閲覧。 
  23. ^ a b 高杉志緒 2010, p. 80-81.
  24. ^ a b 松田澄子「満洲へ渡った女性たちの役割と性暴力被害」『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第45号、山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所、2018年3月、26,23、CRID 1050001202927482112ISSN 0386-636XNAID 120006424554 
  25. ^ a b c 「引き揚げ後の中絶手術」”. NHKアーカイブス. NHK. 2023年11月20日閲覧。
  26. ^ 「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<3> 麻酔なしの中絶手術」、『読売オンライン 九州発』2006年08月03日
  27. ^ 山本 (2015), p. 82:「二日市保養所は、1947年秋に閉所になるまでの1年半ほどの間に「四六二名」(千田夏光『皇后の股肱』 1977:81)、「四、五〇〇件」(『朝日新聞』 1995.8.9)の中絶が行われたとされる」
  28. ^ 「帝国日本の戦時性暴力」, p. 36.
  29. ^ 下川正晴「封印された引揚女性の慟哭 「二日市保養所」70年目の記録」(『正論』2016年7月15日所収)
  30. ^ 日置, 英剛『年表太平洋戦争全史』国書刊行会、2005年、780頁https://books.google.com/books?id=G24xAQAAIAAJ 
  31. ^ 木村 (1980), p. 95.
  32. ^ 「戦後…博多港引き揚げ者らの体験:<4>日誌につづられた悲劇」、『読売オンライン 九州発』2006年08月10日
  33. ^ 上坪 (1993)、203頁。
  34. ^ 上坪 (1993)
  35. ^ 舞鶴引揚記念館”. 京都教育大学 高見. 2023年9月29日閲覧。
  36. ^ 舞鶴市の引揚の記録と引揚船の詳細”. 舞鶴散歩人(HN). 2023年9月29日閲覧。
  37. ^ 上坪 (1993), pp. 21: 「活動の中心は文化人類学者の泉靖一氏であった。彼はやがて「在外同胞援護会救療部」という組織を作りあげていく」
  38. ^ 中村粲戦争と性-ある終戦処理のこと-」(『正論』1998年5月号所収)、59頁
  39. ^ 『ソ連兵へ差し出された娘たち』(株)集英社、2022年1月30日、175-177,179頁。 





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