ラ・マンチャ (DO)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/14 17:25 UTC 版)
歴史
中世以前
ラ・マンチャ地方にブドウがもたらされたのは帝政ローマがイベリア半島を支配した頃であるとされている。この地域のブドウ栽培に関する初の言及は12世紀に遡る。この地域では歴史的に家畜の放牧と穀物の栽培が卓越していたため、18世紀半ばのブドウ栽培面積は農地面積全体の約8%にすぎなかった[4]。また、スペイン国外への輸出に不利な内陸部に位置するため、主に地元で消費されるテーブルワインを生産していた[4]。ラ・マンチャ地方では伝統的に、ティナハと呼ばれる土器の大瓶がワインの熟成や貯蔵に使用された[7]。
19世紀
19世紀後半にはスペインに鉄道がもたらされ、ラ・マンチャ地方には比較的早くにマドリードと結ばれる鉄道路線が開通した。1860年代には首都マドリードやビスケー湾沿岸のバスク地方の市場に進出し、1870年代以降にはフランスへの輸出も行われるようになった[4]。19世紀後半にはヨーロッパ全体をフィロキセラの流行が襲い(19世紀フランスのフィロキセラ禍)、19世紀末から20世紀初頭にはスペインのワイン産地にもフィロキセラが到来したが、乾燥した気候や砂礫質土壌がフィロキセラの活動を阻み、ラ・マンチャ地方はブドウ畑の破壊を免れた[4]。ラ・マンチャ地方ではこの時代にブドウ畑が拡大し、1880年代半ばにはスペイン最大のブドウ産地となった[4]。病害虫への抵抗力が強く、厳しい気候条件に対応し、なにより収量の多いアイレン種の植え付けが進んだ[7]。
20世紀以後
リオハでは工業生産型ワイナリーが、シェリーを生産するヘレス・デ・ラ・フロンテーラでは国外への輸出業者が商業的ワイン生産の牽引者となったが、1950年代のラ・マンチャ地方ではワイナリーを有する協同組合が数多く設立され、協同組合が商業的ワイン生産を主導した[8]。協同組合はもっぱらブレンド用の原酒やテーブルワインを生産し、アイレン種を中心とする白のテーブルワインが樽単位でスペイン各地に出荷された[8]。今日の協同組合の多くは1,000万リットルを超える生産能力を持つ大規模ワイナリーを持つ[8]。フランコ体制下のスペインでは農業の保護政策が行われ、生産されたワインの余剰分は国家によって買い取られた[8]。1932年にはワイン憲章によって原産地呼称制度であるデノミナシオン・デ・オリヘン(DO)が法制化され、リオハやヘレスとともにラ・マンチャも原産地呼称産地に認可されたが、実体としてラ・マンチャ原産地呼称統制委員会が設立されたのは1966年である[2]。
1970年代になるとワイン市場が高級化を志向し、凡庸なワインしか生産できないアイレン種のワインの大量生産が行き詰まりを見せた[6]。1986年にはスペインが欧州諸共同体(EC)に加盟し、ECは各国のブドウ作付面積を制限する農業政策を取ったため、ラ・マンチャ地方ではビウラ(マカベオ)種やシャルドネ種など評価の高い白ブドウへの転換が図られた[6]。さらには黒ブドウのセンシベル(テンプラニーリョ)種への改植が奨励され、赤ワインの生産量が増加した[6]。現代的なステンレス製醸造タンクが導入され、土器のティナハに代わってオーク樽による熟成が一般化した[6]。
- ^ “Relación cronológica de las DOPs”. スペイン農業・農村・水産省. 2011年9月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年7月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g 竹中克行 & 斎藤由香 2010, p. 88.
- ^ a b c d “Estadísticas DOPs 2009-2010”. スペイン農業・農村・水産省. 2015年7月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 竹中克行 & 斎藤由香 2010, pp. 87–88.
- ^ ジョンソン & ロビンソン 2014, p. 185.
- ^ a b c d e f 竹中克行 & 斎藤由香 2010, pp. 89–91.
- ^ a b 竹中克行 & 斎藤由香 2010, pp. 88–89.
- ^ a b c d 竹中克行 & 斎藤由香 2010, p. 89.
- ^ 鈴木孝寿 2004, p. 113.
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