ポパム植民地 インディアンとの争い

ポパム植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/19 04:50 UTC 版)

インディアンとの争い

ポパムとギルバートは川の上流に調査隊を送り、北アメリカ北東部のアルゴンキン語族に属するインディアン部族のアベナキ族に接触した。ポパムはジェームズ1世に宛てた手紙で、インディアンはその地域が容易に利用できる資源で満ちていると告げたと書いた。しかしこの植民地はアベナキ族と協調関係を築くことができなかった。それ以前に訪れた遠征隊が母国で見せる為にインディアンを誘拐していたので、アベナキ族は白人を信用しなかった。

植民者たちが晩夏に到着したということは食物を栽培する時間が無い、ということを意味していた。植民者の半数は1607年12月にギフト・オブ・ゴッド号でイギリスに戻った。火事で少なくとも倉庫とそこに保管していた食料が失われた。後世の発掘では他にも火事が起こったことを示唆した。

植民者は2つの派に別れ、1つはジョージ・ポパムを支持し、もう1つはハンフリー・ギルバートの息子であり、ウォルター・ローリー卿の腹違いの甥であるローリー・ギルバートを支持した。ジョージ・ポパムが1608年2月5日に死んだ。恐らく唯一命を落とした植民者であり、その年に植民者の半数が失われたジェームズタウンとは大きな対照である。1608年2月5日、ローリー・ギルバートが25歳で「植民地の議長」になった。

植民者は1つの大きな計画を完成させた。すなわちバージニア・オブ・サガダホック号と名付けた30トンのピンネース船を建造したことである。それはヨーロッパ人がアメリカで造った最初の船となり、植民地が造船のために使えることを示した。また最終的にはアベナキ族と毛皮の交易を行うことができ、サルサパリラ(薬草の1種)を集めることもできた。

1608年に1隻の補給船が来た時、ジョン・ポパム卿が死んだという伝言をもたらした。ギルバートはそのメアリー・アンド・ジョン号でイングランドに荷物を送った。その夏に船が戻ってきたとき、ギルバートの兄であるジョンが死んだという報せを持ってきた。それ故にギルバートは肩書きとデヴォンのコンプトン城の領地を継ぐ者となった。ギルバートはイングランドに戻ることにした。残っていた45人の植民者もメアリー・アンド・ジョン号とバージニア・オブ・サガダホック号で故国に戻った(バージニア・オブ・サガダホック号はその後もう一度大西洋を渡ることになり、ジェームズ・デービス船長の指揮で翌年第三次補給船隊に入り、ジェームズタウンに行った。)。

この植民地はほぼ1年間続いた。この地域のその後の植民者は、最初の植民者の経験に基づき、ケネベック川のさらに上流、冬の嵐や潮がそれほど厳しくはない現在のバースの地に入植した。




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