ヘロデ大王 逸話

ヘロデ大王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 03:14 UTC 版)

逸話

真偽の程はともかく、様々な逸話が残されている。

ダビデの墓を暴いた
『ユダヤ古代誌』XVI巻7章1節で「噂[注釈 56]」として載っている話。
宝目当てにダビデの墓を開けて蓄えられた金はなかったもののいくつかの黄金の装飾品を見つけ、さらにダビデとソロモンの棺を開けようとした所、火が噴き出し護衛2人が焼死する事件が起きて気味が悪くなったヘロデは墓を再度封印した。
この後「ヘロデにこの祟りのように家庭内不和が起きた」と次の節冒頭でヨセフスは記している[52]
幼児虐殺
マタイによる福音書』2章16-18節に出てくる話。
救世主イエス・キリストの誕生を知らされ、恐れをなして同世代の乳幼児全員を殺させた(どの子がイエスなのか特定出来ない為)。
ただし、ヨセフスを始めとする同時代の歴史家や他の福音書は同様のエピソードを一切伝えていない。
名士たちを集めて強制殉死させようとした
『ユダヤ戦記』I巻33章6・8節と『ユダヤ古代誌』XVII巻6章5節・8章2節に出てくる。
ユダヤ地方の名士たちを「来ないと死刑にする」と召喚し、彼らを競馬場に閉じ込め「自分が死亡したら全員を射殺して無理やり国民を泣かせる」という事を妹のサロメたちに願ったという。
ヨセフスによるとサロメたちはヘロデの死後、すぐに約束を破って名士たちを解放したので実行されなかったという結末になっている[53]

墓の所在

ヘロデの墓

ヘロデの墓については、エルサレム近郊のヘロディウムに人工的に作られた山に存在するとされてきたが、確証は得られていなかった。しかし、2007年5月7日に、ヘブライ大学の研究チームがヘロデの墓を発見したと報じられた[27]

脚注

注釈

  1. ^ アンティパトロス3世の母親
  2. ^ アリストブロス4世とアレクサンドロスなどの母
  3. ^ 「ヘロデ」とだけ呼ばれた人物の母、ハスモン家のマリアムネとは同名の別人でボエトスもしくはボエトスの子シモンという大祭司となった人物の娘。
  4. ^ アルケラオスとアンティパスの母。
  5. ^ フィリッポスの母、ヘロデと勢力を争ったエジプトの女王とは同名の別人。
  6. ^ 大祭司の孫、この人物はヨセフスの著書では「ヘロデ」としか呼ばれていない。福音書では「フィリッポス(ピリポ)」と呼ばれているが、ヘロデ大王の北東部の領地を相続したフィリッポスとは別人(詳しくはヘロデ朝の系図参照)。
  7. ^ 厳密にはこの時アンティゴノスが王位を主張していたが、宗主国のローマは彼を王と認めてなかった(彼のクーデターに協力していたパルティア側からは王扱いされている)。(ヨセフス2000/1) p.361
  8. ^ この「大」という言葉は日本語訳だけではなくヨセフスの『ユダヤ古代誌』中にも「ομεγας(オメガス・大なる)」という記述が一か所だけ(XVIII巻5章4節)だが存在する(シューラー(2012 II)p.60註167)。
    なお、エミール・シューラーは自書『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』において「ヘロデの『大』という形容辞は、彼をひとまわり小形な同名の子孫から区別するため慣例的に付されるもので、それはその相対的な意味でのみ正当化されるものである」と、このヘロデに関する記述を結んでいる。(シューラー(2012 II)p.32
  9. ^ イドマヤはアンティパトロス2世の時代、アレクサンドロス・ヤンナイオスによってユダヤ教化させられた土地であり、この為『ユダヤ古代誌』第XIV巻15章2節ではアンティゴノスがヘロデを「半ユダヤ人」と呼んでいたという記述がある
  10. ^ のちのローマでは「属州総督」だが、このころのユダヤはまだ直轄地域ではなくローマの同盟領主の領土とされていた。
  11. ^ ただし、同時にヒルカノスがユダヤの民族指導者・大祭司であることも認められていた。(シューラー(2012 I)p.373
  12. ^ 『ユダヤ古代誌』XIV巻9章2節ではどの写本もヘロデの年齢を「15(ιε)」としているが、XVII巻6章1節ではこれより40数年ほど先の死ぬ少し前のヘロデが「70歳近く」としているので「25(κε)」の写し間違えではないかという説をエミール・シューラーはあげている。
    シューラー(2012 I)p.385註29
  13. ^ ヒルカノスのローマへの贈り物を自分名義に出すほどになっていた
  14. ^ この人物はかつてカッシウスへ貢納金として金をとられ、カッシウスや集金をしたアンティパトロス達に抵抗的な態度を取っていた。
  15. ^ かつてヘロデの父アンティパトロスが原因でクーデターに失敗したヒルカノスの弟アリストブロス(2世)の息子。ヒルカノスの甥でもある。
  16. ^ 以下特筆ない場合「マリアムネ」とだけある場合はハスモン家の彼女を指す。
  17. ^ その後、ヒルカノスは大祭司に復位できないように耳を切り落とされ、ファサエロスはヘロデは逃げのびたことを知ると自害した、もしくは重傷を負ったところに毒を塗られて死亡したと『ユダヤ古代誌』第XIV巻13章10節にはある(ヨセフス2000/1) p.355-356)。
    ファサエロスの最期は異説もあり、ゲオルギウス・シュンケルス(Georgius Syncellus)の書の中でユリウス・アフリカヌスとシュンケルスの報告という形で「ファサエロスは戦死」という趣旨の記述がある。しかしながらヨセフスの非常に克明な話よりこれらの短い言及を優先させる理由はないとシューラーは『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』で記している。(シューラー(2012 I) p.387註52
  18. ^ 現在のキルベト・コレイサと呼ばれるヘブロンの南約8マイルの所
  19. ^ a b このヨセフスは『ユダヤ戦記』や『ユダヤ古代誌』の著者とは同名の別人。
  20. ^ 彼はパルティア側からヘロデを受け入れないように圧力を受けていた。
  21. ^ なお、『ユダヤ古代誌』XIV巻14章5節によると、ヘロデの当初の計画はヒルカノスの孫(マリアムネの弟)のアリストブロス3世を王としてローマに認めてもらい、彼を正当な王として担いでアンティゴノスに対抗する予定だったとされる。
  22. ^ この数字はヨセフスが『ユダヤ古代誌』第XIV巻16章4節であげている当時のローマ執政官の名前と、第XIV巻15章14節の「包囲開始はローマで王と認められて(ヨセフスはこれを「第184回のオリンピアードの時」と『古代誌』XIV巻14章5節で言っているのでBC40年7月以前)から3年目」という記述から。
    異説としてカッシウス・ディオが『ローマ史』XLIX巻22章3-23節で「この時の執政官」として挙げている人物(ヨセフスがあげている人物とは異なる)の名前やシリアのサモサタで起きた戦闘の話からBC38年、またヨセフス自身が『古代誌』第XIV巻16章2節でエルサレム制圧を「安息年(7年に一度の風習)の時だったので(作付けをしておらず)食糧が底をついていた」と言っていることと、ポンペイウスによるエルサレムの占領(BC63年晩秋)から27年後の同じ日にソシウスのエルサレム制圧が起きたという記述から、包囲開始をBC36年春から夏にする説もある。ただしディオの記述は短い文章でさらりと語るだけなのであまり支持されず、後者も「27年後の同じ日」をBC37年と解釈することもできる(シューラー(2012 I) p.392-395註11)。また第XV巻1章2節((ヨセフス2000/2) p.15)にもヘロデが王になってからも「この年は7年に一度の土地を休ませる~」という記述がある。
  23. ^ ただし異説としてストラボンは歴史書で「アントニウス自身、アンティゴノスを危険視してヘロデの支配が安定するように処刑した」という説明をしていたらしく(この書は現存せず)、ヨセフス自身が『ユダヤ古代誌』XV巻1章2節でこの話を引用している。
  24. ^ ポリオンとサマイアスはかつてヘロデが裁判にかけられた際「ヘロデをここで助命するといつか皆の死につながる」と言い出した人物であったが、彼らは包囲戦の時ヘロデにつくように市民を説得したので、逆に裁判の時にいた議員のうち彼らだけはヘロデに殺されることはなかった他、カエサルへの忠誠とヘロデの統治に従う誓いをしないものを処刑したが、ポリオン達はエッセネ派の人々とともに大目にみられていた。
    (『ユダヤ古代誌』XIV巻9章4節・XV巻1章1節・10章4節(ヨセフス2000/1) p.301-302(ヨセフス2000/2) p.13-14・117
  25. ^ もっともヨセフスは「ヘロデには両方下心があり、ヒルカノスやアリストブロスが手元にいることで自分の地位の安定につながると考えていた」としている。
    (『ユダヤ古代誌』XV巻2章全般。(ヨセフス2000/2) p.16-24
  26. ^ これによって彼女はアリストブロスとともにエジプトのクレオパトラのもとに亡命を計画したが途中で発覚し失敗に終わった。
  27. ^ ヘロデ側は事故としたが、ヨセフスは「この死は彼の人気に嫉妬したヘロデによる暗殺で、アレクサンドラやマリアムネもそう考えていた」としている。
    『ユダヤ古代誌』XV巻2章4節-3章4節((ヨセフス2000/2) p.19-31
  28. ^ ヘロデが死んだ場合マリアムネを殺すように叔父ヨセフスは命令を受けていて、これをマリアムネたちは聞き出していた。
  29. ^ これは『ユダヤ古代誌』での記述で『ユダヤ戦記』ではこういったことがあっても丁寧に接したという記述になっている。
  30. ^ ヨセフスはどちらが勝っても負けた方の領地を入手できるクレオパトラの策略としている
  31. ^ ヨセフスは本人の温厚な性格などからヘロデによる濡れ衣としている。(『ユダヤ古代誌』XV巻6章3節)
  32. ^ アントニウスの友人の1人、この時処刑が決まっていた
  33. ^ 参考までにいうとヘロデの死後、この時点よりさらに拡大していた彼の領地を相続した息子3人と妹のサロメの領地の年収合計は960タラントであった(『ユダヤ古代誌』XVII巻9章4節((ヨセフス2000/2) p.351-352)のでかなりの出費だった。
  34. ^ ヨセフスはサロメが王の酌人を買収して偽証をさせたとしている。
  35. ^ 『ユダヤ古代誌』XV巻7章4節によると「ヘロデのカエサル訪問から1年後」とされている((ヨセフス2000/2) p.76)。
  36. ^ なお、ヨセフスは『ユダヤ古代誌』XV巻7章末尾((ヨセフス2000/2) p.88)で「これでヒルカノスの親族はだれ一人生き残った者はいなくなった」という趣旨の事を書いているが、これは「男で」という意味らしく、『ユダヤ古代誌』XVII巻5章2節ではこれから20年ほど後の話に「(ヒルカノスの甥)アンティゴノスの娘」が出てくる。(シューラー(2012 II) p.43註53
    また、この時点ではマリアムネとヘロデの間の息子たちも生存している。
  37. ^ 極端な例では宮殿建設の頃、アレクサンドリア人の祭司の娘マリアムネ(2世)と結婚するため、家柄が微妙な彼女が王と結婚できるようにと私情以外の何物でもない理由で彼女の父親を大祭司に任命したこともあった。
    (『ユダヤ古代誌』XV巻9章3節((ヨセフス2000/2) p.103
  38. ^ エルサレムに送る奉納金が横取りされる問題や、律法に反する行動をとる軍役や市民活動への強制の問題など、ユダヤ人はハスモン朝期にローマの下に入った際、律法を守っての生活は認められていた。
  39. ^ コロスは体積の単位、物によって違うが1コロスはヨセフスの計算ではアッティカ・メディムノスの10倍、訳者の秦によると実際には7倍。メディムノスそのものは時代や物によって異なるが、ソロンの時代のアテネでは500メディムノス収穫できる畑を持っていればあれば最上流階級だった(詳しくはソロン#政治改革を参照)。
  40. ^ 管理が不十分で治安が悪いという理由でゼノドロスはこの3地方を没収されていた。
  41. ^ ヘロデ一族の君主貨幣はいくつか見つかっているがすべて普通の同盟領主と同様に銅貨である。ローマ帝国では同盟領主の内銀貨鋳造はごく限られたもののみ認められ、金貨鋳造ができた同盟領主は確認されていない。
  42. ^ 『ユダヤ戦記』I巻30章1節 ((ヨセフス2002/2)p.212-213)ではフェロラスが妻に毒殺された(ただしアンティパトロスとは無関係でフェロラス自身はむしろアンティパトロス側の人間)としている。
  43. ^ この時点での王位継承順は「アンティパトロス→マリアムネ2世の子のヘロデ」の順で、当時の大祭司の孫より高位の扱いだった。
    (『ユダヤ戦記』I巻29章2節(ヨセフス2002/2) p.209・『ユダヤ古代誌』XVII巻3章2節(ヨセフス2000/2) p.270
    (ただし『ユダヤ戦記』I巻30章2節によるとアンティパトロスは息子に王位継承ができず、「アンティパトロスの死後はマリアムネ2世の子のヘロデが継ぐ」という順序だった)
  44. ^ ヨセフスはこの「ヘロデへの悪口」は実際はアンティパトロスの策略だったとしている。
    『ユダヤ戦記』I巻32章7節((ヨセフス2002/2) p.233)・『ユダヤ古代誌』XVII巻4章3節((ヨセフス2000/2) p.278
  45. ^ 寄生虫や潰瘍による病気があったとヨセフスはしており、このためにヘロデはヨルダンのカリルロエという所(死海北東端付近)の温泉に療養に行ったが、浴槽で意識を失うほど弱っていたという。
    (『ユダヤ戦記』I巻33章5節((ヨセフス2002/2) p.236-237)、『ユダヤ古代誌』XVII巻6章1節((ヨセフス2000/2) p.307-308))
  46. ^ ヘロデは「任命から37年間統治・エルサレム征服から34年後で過ぎ越しの祭りの少し前に死亡した」と『ユダヤ古代誌』XVII巻8章1節・9章3節にあり、任命が紀元前40年の冬であることから単純に計算すると紀元前3年の3~4月死亡になるが、以下の根拠より端数切り上げの誤差が妥当とシューラーは説明する。
    1. ヘロデ死亡の少し前「(鷲の紋章破壊事件の首謀者ユダとマタティア処刑の夜)月食があった」と『ユダヤ古代誌』XVII巻6章4節にある事、紀元前3年と2年の月食はエルサレムでは目撃不能だが、紀元前4年なら晴れていれば3月12-13日に目撃できる。
    2. アルケラオスとアンティパスの統治は父の死後からだが、紀元前3年にヘロデ死亡だと解任までの年数が統治年に足りない(ヨセフス以外の記録でもアルケラオスは10年目に解任され、アンティパスは43年目までは貨幣を発行していた証拠があり、解任がそれぞれ紀元後6年と39年とされる)。
    なお、紀元前4年前後のエルサレム周囲で目撃可能な月食は紀元前5年9月15日と紀元前1年1月9日のため、過ぎ越しの祭り(3~4月)以後の前者は結局紀元前4年になってからヘロデが死去する必要があり、後者は息子たちの統治年にさらに無理が出るので、ヘロデの死亡は現在の数え方で紀元前4年の過ぎ越しの祭り(4月11日)の少し前というのが妥当と考えられる。(シューラー2012II) p.58註165
  47. ^ 『ユダヤ戦記』第I巻33章9節では「(ヘロデは)200スタディオン(離れた所へ)運ばれた」とあるので、シューラーは「エリコから墓所までが200スタディオン、葬列は8スタディオンついてきてそこで解散、残りは遺体を運ぶものだけで進んだ」という趣旨だと説明している。へロディオンは同名の砦が2つあり、1つはアラビアに向かう山中・もう1つはエルサレムから南に3時間ほど歩く場所でここでは後者を指している。なお、エルサレム近郊にある墓標(原文直訳は「記念建造物」)は記念碑でありそこに葬られたわけではない。(シューラー2012II) p.60註166
  48. ^ ローマ帝国の同盟領主は着任に皇帝の勅命が必要だった。((シューラー2012II) p.24-25)。
  49. ^ その後現地に残した財務官サビヌスが戦利品と称して王室財産を没収してたので逆に騒ぎを大きくしてもう一度出動する羽目にもなった。
  50. ^ ただし、ガザ、ガダラ、ピッポスはギリシャ人が多いのでシリア領に編入
  51. ^ 『ユダヤ戦記』II巻6章3節では400タラント。((ヨセフス2002/2)p.269
  52. ^ 他の親族やローマ皇帝自身も何らかの遺産を受け取ったが長くなるので割愛。
  53. ^ ヨセフスの記述では『戦記』『古代誌』で若干違いがあり、『ユダヤ戦記』では「統治9年目、ガリアのビエンナ」、『ユダヤ古代誌』では「統治10年目、ガラティアのビエンナ」とあるが統治年はディオの『ローマ史』と共通のある『古代誌』、追放場所はビエンナ(ローヌ川東岸の町で現在のウィーン)であることから『戦記』の方が正しいとされる。
  54. ^ サロメの死亡年は『ユダヤ古代誌』第XVIII巻2章2節に「(ユダヤ総督)アンビブルスの在任中に王ヘロデの妹のサロメが亡くなった」という記述があり、別の記録からアムビブロスの在任期間が西暦9-12年頃とされているのでサロメの死亡時期はこの間である。
  55. ^ 子供はいなかったので領地は一時シリア属州に編入された
  56. ^ ヨセフスは基本的にヘロデ大王の話は彼に仕えていたダマスコのニコラウスの歴史書から引用している(ハスモン家の事を悪く書いてあるエピソードなどはこれによるものだという)が、この墓を暴いたエピソードのみ明確に「載ってない話」「噂」と断っている。

出典

  1. ^ a b c d e f シューラー(2012 II) p.427補遺VIII
  2. ^ a b c 長窪 pp453-456
  3. ^ 長窪 p77・88
  4. ^ 『ユダヤ古代誌』XIV巻1章3節・9章1-2節((ヨセフス2000/1) p.254・296-297
  5. ^ 『ユダヤ古代誌』第XIV巻9章1-2節((ヨセフス2000/1) p.297-298
  6. ^ 『ユダヤ古代誌』第XIV巻9章3-5節((ヨセフス2000/1) p.298-304
  7. ^ 『ユダヤ古代誌』XIV巻11章2-6節(ヨセフス2000/1) p.329-335
  8. ^ 『ユダヤ古代誌』XIV巻11章7節-12章1節(ヨセフス2000/1) p.335-337
  9. ^ 『ユダヤ古代誌』XIV巻12章2節・13章1-2節(ヨセフス2000/1) p.337-338・344-345
  10. ^ 『ユダヤ古代誌』XIV巻13章3-9節・14章1-5節(ヨセフス2000/1) p.346-354・357-362
  11. ^ 『ユダヤ古代誌』14章6節・15章1-3節(ヨセフス2000/1) p.363-368
  12. ^ 『ユダヤ古代誌』15章5-13節(ヨセフス2000/1) p.370-381
  13. ^ 『ユダヤ古代誌』XIV巻15章14節・16章1-4節(ヨセフス2000/1) p.381-388
  14. ^ (シューラー2012II) p.11
  15. ^ (シューラー2012II) p.11-12
  16. ^ 『ユダヤ古代誌』XV巻1章2節・XIV巻9章4節・『ユダヤ戦記』I巻18章4節
  17. ^ レザー・アスラン『イエス・キリストは実在したのか?』文藝春秋、2014年、52頁。ISBN 978-4-16-390093-3 
  18. ^ 『ユダヤ古代誌』XV巻3章5-9節((ヨセフス2000/2) p.31-38
  19. ^ 『ユダヤ戦記』I巻18章5節・『ユダヤ古代誌』XV巻4章1-2節((ヨセフス2000/2) p.38-43
  20. ^ 『ユダヤ戦記』I巻19章全般・『ユダヤ古代誌』XV巻5章全般((ヨセフス2000/2) p.44-59
  21. ^ 『ユダヤ戦記』I巻20章1-3節((ヨセフス2002/2) p.147-150)、『ユダヤ古代誌』XV巻6章全般・7章3節((ヨセフス2000/2) p.59-70・75
  22. ^ 『ユダヤ古代誌』XV巻7章8節((ヨセフス2000/2) p.83-84
  23. ^ 『ユダヤ古代誌』XV巻7章9節((ヨセフス2000/2) p.84-88
  24. ^ 『ユダヤ戦記』I巻21章全般・『ユダヤ古代誌』XV巻8章全般・第9章3-6節((ヨセフス2000/2) p.89-97・102-108
  25. ^ 『ユダヤ古代誌』XV巻11章全般((ヨセフス2000/2) p.120-130
  26. ^ この諺の原出典はバビロニア・タルムードの『バヴァ・バトラ』4a・『タアニート』23a。(シューラー2012II) p.20・p.47・註71
  27. ^ a b 長窪 pp113-114
  28. ^ 『ユダヤ古代誌』XV巻8章1-3節((ヨセフス2000/2) p.89-95
  29. ^ (シューラー2012II) p.23
  30. ^ 『ユダヤ古代誌』XVI巻1章1節((ヨセフス2000/2) p.133
  31. ^ (シューラー2012II) p.21-22
  32. ^ 『ユダヤ古代誌』XVI巻2章3-5節((ヨセフス2000/2) p.140-151
  33. ^ 『ユダヤ古代誌』XV巻9章1-2節((ヨセフス2000/2) p.98-102
  34. ^ 『ユダヤ古代誌』XV巻10章1-3節((ヨセフス2000/2) p.109-115
  35. ^ (シューラー2012II) p.24-25・p.52註104
  36. ^ 『ユダヤ古代誌』XVI巻1章2節((ヨセフス2000/2) p.134-136
  37. ^ 『ユダヤ戦記』I巻23章1-2節((ヨセフス2002/2) p.168-169)・『ユダヤ古代誌』XVI巻3章1-3節((ヨセフス2000/2) p.152-156
  38. ^ 『ユダヤ古代誌』XVI巻4章1-6節((ヨセフス2000/2) p.158-173
  39. ^ 『ユダヤ戦記』I巻27章全般((ヨセフス2002/2) p.195-200)・『ユダヤ古代誌』XVI巻10章全般・11章1-7節((ヨセフス2000/2) p.222-249
  40. ^ 『ユダヤ戦記』I巻29-31章・『ユダヤ古代誌』XVII巻3章3節-4章3節
  41. ^ 『ユダヤ古代誌』XVII巻4章2節((ヨセフス2000/2) p.277-278
  42. ^ 『ユダヤ古代誌』XVII巻6章1節((ヨセフス2000/2) p.300
  43. ^ 『ユダヤ戦記』I巻33章2-4節((ヨセフス2002/2) p.234-236)・『ユダヤ古代誌』XVII巻6章2-4節((ヨセフス2000/2) p.301-306
  44. ^ 『ユダヤ古代誌』XVII巻7章1節((ヨセフス2000/2) p.311-312
  45. ^ 『ユダヤ戦記』I巻33章7節((ヨセフス2002/2) p.239、『ユダヤ古代誌』XVII巻第8章1節((ヨセフス2000/2) p.313
  46. ^ 『ユダヤ古代誌』XVII巻8章3節((ヨセフス2000/2) p.316
  47. ^ ユダヤ古代誌』XVII巻9章全般((ヨセフス2000/2) p.319-333
  48. ^ 『ユダヤ古代誌』XVII巻10-11章全般((ヨセフス2000/2) p.333-352
  49. ^ a b 関谷 p119
  50. ^ 『ユダヤ戦記』2巻7章3節 (ヨセフス2002/2)p.272-273『ユダヤ古代誌』XVII巻13章2・4節((ヨセフス2000/2) p.359・362
  51. ^ シューラー(2012 I) p.331-332註3
  52. ^ (ヨセフス2000/2) p.190
  53. ^ (ヨセフス2002/2) p.237-238・240(ヨセフス2000/2) p.308



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