フィッティパルディ
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人物
フィッティパルディの実質的な最後の車両であるF8(後継のF8C、F9はマイナーチェンジ)は1980年の第8戦ドイツGPで投入され、大きな結果を残すことはなかったが、設計・開発の指揮はハーベイ・ポスルスウェイトによって執られ、空力は当時大学を卒業したばかりの新人エイドリアン・ニューウェイ(フィッティパルディはニューウェイにとって最初に在籍したF1チーム)が担当するという布陣であった。この2人はフィッティパルディからの離脱後にそれぞれ名を成すこととなる。
チーム創立時にチームマネージャーとして加入したジョー・ラミレスは、創立メンバーの一人として創設初期に監督を務めた。ラミレスは1980年代半ばにマクラーレンに加入し同チームのチームマネージャーとして2001年まで活躍した。
1978年シーズンに向け前年のF5シャシーをグランドエフェクト仕様(F5A)にアップデートする作業を手がけたジャコモ・カリーリは、後にミナルディの初代テクニカルディレクターとしてF1の現場に姿を現すこととなる。
1980年から1981年にかけては、ウルフからの合流組であるピーター・ウォーが監督としてチームの現場指揮を執った。ウォーは後にロータスのチームマネージャーとして知られることとなる。
ロータスにおいてメカニックとしてエマーソンを担当していた伊藤義敦は、チーム設立にあたってフィッティパルディに合流しリチャード・ディヴィラの下、実質的にメカニックチーフとしてF1未経験のブラジル人メカニックらの「教官」役を担った。フィッティパルディ側では後年作成したチーム紹介用のパネルの中で、フィッティパルディ兄弟、デヴィラ、ジョー・ラミレスの4人と並び伊藤のことをチーム創設にあたっての最重要人物の一人として紹介している。
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