ディルク・ボウツ ミュンヘンの絵画

ディルク・ボウツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/21 06:38 UTC 版)

ミュンヘンの絵画

『ブラバントの真珠』, 1467年 - 1468年

ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク所蔵の2作の「ボウツ風」作品は美術史家たちを混乱させ続けてきた。1作目は『ブラバントの真珠 (Pearl of Brabant)』と呼ばれる三連祭壇画で、1902年初頭にボウツの正真の作品から切り離されたものだと裏書きされているが、最近の研究でこれは否定されている。もう1作はイエスの受難を題材とした祭壇画を構成していた2枚のパネルで、それぞれ『ユダの裏切り (Betrayal of Christ)』、『復活 (Resurrection)』が描かれている。長期にわたってこれらの作品はボウツの最初期の作品であると考えられていた。しかしパネルを年輪年代学で測定した結果、ボウツが死去する1475年ごろのものであることが判明した。そのため現在ではこの作品をボウツが描いたと考える研究者は少なくなっている。

その他の作品

『聖エラスムスの殉教の三連祭壇画』中央パネル, 1458年

間違いなくボウツの作品とされているのは『最後の晩餐』と『皇帝オットーの裁判』以外には存在しない。1468年から1470年ごろの『最後の審判の祭壇画 (Last Judgment Altarpiece)』、1466年ごろの『聖エラスムスの殉教の三連祭壇画 (Martyrdom of St. Erasmus Triptych)』が高い確率でボウツの作品だとされている。その他にボウツの作品ではないかと考えられているものには以下のような作品がある。

2人の息子

バウツは2度結婚し、4人の子供をもうけた。娘2人は修道院へ入り、息子2人は画家となってボウツの工房を継いだ。長男で父と同名のディルクについてはほとんど知られておらず、1491年に若くして死去するまで父の作風とよく似た作品を描いていたこと程度しかその生涯は分かっていない。弟のアルブレヒト (en:Aelbrecht Bouts) も兄同様に父の作風の影響はあるが、自身の作風で表現した作品を完成させた。アルブレヒト独特の作風は16世紀まで「ボウツ風」絵画を発展させたものとなっている。








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