ジョン・レノン
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死亡事件
1980年12月8日の午前中、自宅であったダコタ・ハウスでレノンはアニー・リーボヴィッツによる「ローリング・ストーン」掲載用写真のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットの髪型に眼鏡を外し、ビートルズ全盛期のころのように若返った姿が話題を呼んだが、この日のレノンはさらに髪を切り、グリースでリーゼント風に整えて撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるものであった(10月ごろには伯母ミミに電話で、学生のころのネクタイを探し出すよう頼んでいる。
撮影後にしばらく自宅でくつろいだあと、17時にはオノの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「ザ・ヒット・ファクトリー」へ出かけた。
一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組の取材を受ける。この最期の取材で、レノンは新作アルバムや近況、クオリーメン、マッカートニーやハリスンとの出会いについて語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている[注釈 14]。
22時50分、スタジオを出たレノンとオノはリムジンに乗り、自宅の前に到着した[44]。2人が車から降りたとき、その場に待ち構えていたマーク・チャップマンが暗闇から「レノンさんですか?(Mr Lennon?)」と呼びかけると同時に、拳銃を5発発射、うち4発をレノンの胸、背中、腕に命中させた。[24]、レノンは「撃たれた!(I'm shot!)」と2度叫び[45]自宅の入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに緊急通報に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分後に到着した。
警官の到着時、レノンはまだ僅かに意識を保っていたが、一刻を争う危険な状態にあった。そのため、2人の警官が彼をパトカーの後部座席に乗せ、近くのルーズヴェルト病院に搬送した。警官が瀕死のレノンの意識を保たせるため質問すると、苦しみながら「俺はジョン・レノンだ。背中が痛い」と述べたが声は次第に弱まっていった。病院に到着後、医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、既に全身の8割の血液を失っていたレノンは、失血性ショックによりルーズヴェルト病院で23時頃に死亡した[24]。満40歳没(享年41)。レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという。
事件後、チャップマンは現場から逃走せず、手にしていた「ダブル・ファンタジー」を投げ捨て、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道を歩き回っていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、「ええ、僕がジョン・レノンを撃ったんです」(I just shot John Lennon)と述べ、自分の単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がレノンであることを知った警官が、「お前は自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた[46]。
病院でレノンの死を伝えられたオノは「彼は眠ってるっていう事?」と質問したという[47]。のちに病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はレノンの死亡を確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させる事はできなかった」と語った。
レノンの殺害に関して、彼の反戦運動やその影響力を嫌った「CIA関与説」などの陰謀説も推測されたが、公式には単独犯行と断定されている。ニューヨーク州法に基づいてチャップマンに仮釈放があり得る無期刑が下った。チャップマンは服役開始から20年経過した2000年から2020年に至るまで2年ごとに仮釈放審査を受けたが、本人の精神に更生や反省が見られないこと、妻子への再犯の確率が高いこと、レノンの遺族が釈放に強く反対していること、釈放されてもレノンのファンに報復で殺害される危険性があるとして仮釈放申請を却下され、2024年現在も服役中である。
この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。イギリス・サセックスの農家に滞在していたマッカートニーは「ジョンは偉大だった」と一言述べた後絶句[48]。カナダに滞在中だったスターはのちに妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに赴き、遺族を見舞った。ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーは「ジェラス・ガイ」を、マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ハリスンは「過ぎ去りし日々」(マッカートニー、妻リンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンがバック・コーラスで、スターがドラムで参加)をレノンへの追悼曲としてそれぞれ発表した。
また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ビートルズと人気を二分したザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズも憤りを隠せなかった。音楽メディアはビートルズとストーンズをライバルと報道したが、実際には曲を提供したり、『ロックンロール・サーカス』で共演するなど深い親交を結んでいた。リチャーズの怒りと悲しみは、多くのロック・ファンの心情を代弁していたと言える。
日本ではビートルズ・シネ・クラブにファンからの電話が殺到し、12月24日、同クラブ主催の追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われた[49]。ステージには「心の壁、愛の橋」のフォト・セッションで撮られたレノンの写真が大きく掲げられ、集会後、参加者がキャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行われている。
注釈
- ^ 1974年リリースのアルバム『心の壁、愛の橋』においては、収録曲の自身の演奏者クレジットを全て変名で行っている。
- ^ 出生名はジョン・ウィンストン・レノンであるが、ヨーコとの結婚に際し改名した。
- ^ 『ギネス・ワールド・レコーズ』では、もっとも成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲)」と紹介されている。
- ^ のちに英国のベトナム戦争支持への反対を理由に返上した。
- ^ この曲は、1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』で公式に発表された。
- ^ 2人は近所で生まれ育っていたが、この日まで一度も会ったことはなかったという。
- ^ 最初の妻シンシアの回顧本「ジョン・レノンに恋して」(2007年) によると、ジュリアに気づいた警官が、慌ててブレーキとアクセルを踏み違えたことで起こった事故とされている。警官に下った判決は「無罪」。
- ^ サトクリフと並んでベースを演奏している写真がある。
- ^ レノンは再入国禁止処分に対する抗告と裁判を1975年10月まで行い、最終的に勝訴した。
- ^ 没後、1982年のグラミー賞年間最優秀アルバム賞を2人で獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。
- ^ 『ラム』でのマッカートニーのジョンへの皮肉は『イマジン』における『ラム』のパロディー、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」におけるポールの作品が軽音楽のようだという歌詞、『ウィングス・ワイルド・ライフ』における「ディア・フレンド」がジョンを指すなど。
- ^ ニューヨークで日本語を学んでいた際に、ジョンが使用していたノートは、Ai 〜 ジョン・レノンが見た日本(ちくま文庫・2001年)として出版された。
- ^ その後、東京のホテルオークラで記者会見を開き、プレスリーの死について言及している。
- ^ このインタヴューの一部は2001年にリリースされたアルバム『ミルク・アンド・ハニー』のリマスター盤に収録されている。
出典
- ^ “Fim dos Beatles foi anunciado por Paul McCartney há 50 anos”. Correio do Povo (Grupo Record). (2020年4月10日) 2020年12月17日閲覧。
- ^ “THE SILVER BEATLES, BY ANY OTHER NAME”. buffalonews.com (Lee Enterprises). (1994年1月16日) 2020年12月20日閲覧。
- ^ “Why The Rolling Stones Hosted An All-Star Concert But Didn't Release It For 30 Years”. Live For Live Music. (2015年12月11日) 2022年6月8日閲覧。
- ^ “ヨーコ・オノ『無限の大宇宙』(1973年作品)アルバム詳細解説 | ヨーコ・オノ”. ソニーミュージックオフィシャルサイト. ソニー・ミュージックエンタテインメント. 2022年6月8日閲覧。
- ^ Blaney, John (2005). “1973 to 1975: The Lost Weekend Starts Here”. John Lennon: Listen to This Book (illustrated ed.). [S.l.]: Paper Jukebox. p. 127. ISBN 9780954452810
- ^ Womack, Kenneth (2014). The Beatles Encyclopedia: Everything Fab Four. Greenwood Pub Group. p. 590. ISBN 0-3133-9171-8
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- ^ 名取由恵. “ビートルズ誕生の地 リヴァプールを征く”. Onlineジャーニー (ジャパン・ジャーナルズ) 2020年12月13日閲覧。
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- ^ “John Lennon Northern Lights Festival in Durness”. Scotland homepage. 2007年12月25日閲覧。
- ^ The Guardian (Guardian Media Group). (2007年1月8日). https://www.theguardian.com/music/musicblog/2007/jan/08/post17+2020年12月13日閲覧。
- ^ https://www.allmusic.com/artist/lonnie-donegan-mn0000277549/biography
- ^ ルー・クリスティ インタビュー 2021年1月14日閲覧
- ^ ドキュメンタリー「ビートルズ・シークレット・ストーリー」
- ^ a b [John Lennon:The Life] Philip Norlan著
- ^ ドキュメンタリー映画「ビートルズ・シークレット・ストーリー」より。
- ^ https://thebeatlesinindia.com/stories/meeting-the-beatles/
- ^ 「ジョン・レノン その生と死と音楽」河出書房新社
- ^ Ali, Tariq (20 December 2006). "John Lennon, the FBI and me". The Guardian. UK. Retrieved 18 August 2010.
- ^ 『ジョン・レノンの真実 ― FBI監視記録 DE‐4〜HQ‐33』 (ジョン・ウィーナー著、角川書店、2000年)。また、一連の事件をまとめた映画『PEACE BED/アメリカ vs ジョン・レノン』が2006年に公開された (日本公開は翌年)。
- ^ ジョン・レノン元愛人のマンション、約5億7000万円で売りに出される | ENCOUNT
- ^ ビートルズ よみがえる『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月22日夕刊 3版 15面
- ^ “ジョンは政府に殺された… オノ・ヨーコ、惨劇を回想”. NIKKEI STYLE. 日本経済新聞社、日経BP (2020年10月30日). 2020年12月13日閲覧。
- ^ a b c “1980年12月8日、ジョン・レノンが「神」になった日【没後40周年特集より】”. ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト. CCCメディアハウスCCCメディアハウス (2020年12月8日). 2020年12月13日閲覧。
- ^ 『ジョン・レノンPLAYBOYインタビュー』集英社、1981年3月10日、33頁。
- ^ a b c ジョン・レノンラスト・インタビュー (文庫) ジョン・レノン (著)、John Lennon (著)、オノ・ヨーコ (著)、アンディ・ピーブルズ (著)、Andy Peebles (著)、池澤 夏樹 (著) 中公文庫
- ^ ビートルズ音楽論―音楽学的視点から、田村和紀夫著 東京書籍
- ^ シンコーミュージック刊: ジョン・レノン全曲解説 ジョニー ローガン (著)、Johnny Rogan (原著)、丸山 京子 (翻訳)
- ^ シンコーミュージック刊: ギターマガジン、トニー・レヴィン特集、インタヴュー所収記事
- ^ シンコーミュージック刊: ギターマガジン、ジョン・レノン特集、スピノザ・インタヴュー所収記事
- ^ ミュージックマガジン刊: レコードコレクターズ2002 vol.12, No.12, 96ー99サエキけんぞう
- ^ ビートルズ音楽論―音楽学的視点から、田村和紀夫著
- ^ ビートルズのつくり方」1994 山下邦彦 著
- ^ 「ジョンレノン 愛の遺言」 (講談社1980年12月8日収録インタヴュー、1981年刊行)
- ^ 雑誌「ローリングストーン」において。
- ^ [1]
- ^ シンコーミュッジック刊、1972年 ビートルズの軌跡所収、水原健二インタヴュー、1971 (昭和46) 年1月21日、372p
- ^ ジョンとヨーコの「日本との関わり」 ソニーミュージック
- ^ 第四十二話『ジョン・レノンからもらったyes!』 TokyoFM
- ^ ジョン・レノンが愛した「軽井沢」 WATCHY×BSフジ ESPRIT JAPON
- ^ サンケイスポーツ1977年10月5日
- ^ a b 河出書房新社刊 別冊文藝 ジョンレノン所収
- ^ ミュージックマガジン、ジョン・レノンを抱きしめて、1981年、2000年復刊所収
- ^ Badman, Keith (2001). The Beatles After the Breakup 1970-2000: A Day-by-Day Diary. Omnibus Press. pp. 270-272. ISBN 978-0-7119-8307-6
- ^ “Was John Lennon's murderer Mark Chapman a CIA hitman? Thirty years on, there's an extraordinary new theory”. Daily Mail (2010年12月4日). 2011年12月4日閲覧。
- ^ Albert Goldman, The Lives of John Lennon, Chicago Review Press, 2001 (1988), p. 687.
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- ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京、堺屋太一、立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p1163。
- ^ “ジョン・レノンの追悼集会(東京・千代田区の日比谷…:ジョン・レノン 写真特集”. 時事ドットコム. 時事通信社. 2021年1月13日閲覧。
- ^ “JOHN LENNON 音楽で世界を変えた男の真実”. lookingforlennon.jp. 2022年12月10日閲覧。
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