ジャッキー・チェン エピソード

ジャッキー・チェン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 00:00 UTC 版)

エピソード

再デビューまでの苦難

1973年、「ついに自分もスターになるチャンスがきた」と、意気揚々と初主演作『タイガー・プロジェクト/ドラゴンへの道 序章』(1973年)の撮影に臨んだジャッキーだったが、そのあまりの低予算、悪条件ぶりに愕然とする。本作品は、いわゆるセブンデイズ映画と言われる類の作品で、わずか7日間で完成させてしまうような粗末な現場だった[35]。大きく落ち込む彼にさらに追い打ちをかけるように、ブルース・リー急死」の報が飛び込んでくる。この香港映画界を揺るがす悲報に、香港全体が大きな喪失感に包まれた。ジャッキーもスタントに参加したリーの遺作燃えよドラゴン』は、リーの死後、世界各地で公開され、大ヒットを記録。世界的なスーパースターへと上り詰めたとき、リーはもうこの世にいなかった。そして、カンフー映画市場は急激に冷え込み、冬の時代へと突入してゆく。時代は、コメディやロマンスといったドラマが中心となり、本格的なカンフー映画の本数は激減していた[35]

貯めたお金を切り崩しながら数ヵ月を過ごした後、かつて世話になったジュー・ムー監督から、やっとのことで仕事をもらった。1作目の『花飛満城春』では、人妻と関係を持つ人力車夫役を演じ、ベッドシーンを披露した。2作目の『拍案驚奇』には、殺人犯役で出演。ともにアダルトな作品で、映画自体はまずまずヒットしたものの、ジャッキーにとっては仕事を得るのが難しい状態が続いた[36]

1975年、ゴールデン・ハーベストへ入社し、ゴールデン・ハーベストでのサモ・ハンの仕事がまた増えてきたが、本格的なアクションと呼べる作品は少なかった。その頃に製作された数少ないカンフー映画が『少林門』(1975年)だった。監督は、当時まだ無名で、のちにハリウッドで活躍する、若き日のジョン・ウーだった。当初は、出演予定がなかったジャッキーも準主役で出ることになった。本作品は、撮影から約1年後の1976年夏に香港で公開されたが、ヒットせずに終わった[36]

ロー・ウェイとの関係

再デビュー当時のエピソード

レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』(1976年)で、ロー・ウェイがジャッキーに求めたのはブルース・リーの姿そのもので、不器用な演技しかできなかったジャッキーにとって、それはあまりに困難だった。撮影現場で、要求に思うように応えられないジャッキーに対し、ローは怒りをぶちまけるのだった。その度にマネージャーのウィリーはジャッキーの不満や悩みを聞いてやり、なだめては、なんとか撮影を続けさせた。当時、香港にはマネージャーという概念自体がなく、後にジャッキーの右腕を振るったウィリーこそ、その元祖と言われている。ローは、現場を抜け出してギャンブルをしに行ったりし、撮影を他人任せにしていなくなることが多かった[10]

再デビューの撮影から2か月を待たずして、次回作『少林寺木人拳』(1976年)の撮影に取り掛かる。本作品の総監督・ローは、前作の出来によほど嫌気が差したせいか、ジャッキー同様に安いギャラで雇った当時の若手監督のチェン・チーホワに、実際の撮影現場をほぼ任せっきりにした。前作の撮影監督がチーホワで、ジャッキーより7歳年上と年齢が近いこともあってすぐに意気投合。ともに20代で若い感性を持っており、互いにアイデアを出し合って、映画作りを楽しんだ。ジャッキーは、後にこの作品を「ある意味、僕の最初の『夢の映画』。映画作りとはこうあるべきだと思って作った」と語っている[10]

ジャッキー・ジャック事件

ロー・ウェイとは、個人プロダクション時代から折り合いが悪く、この仲違いの末、ジャッキーは、当時のゴールデン・ハーベスト社長のレイモンド・チョウ、自分のマネージャーであり親友のウィリー・チェンらと図り、ローのプロダクションから半ば強引に離脱した。いわゆる二重契約問題である。ジャッキーは、この顛末を自伝『僕はジャッキー・チェン』で詳細に述懐している。その内容を以下に要約する。

1979年の初夏、前年に他社にレンタル出向し製作された『スネーキーモンキー 蛇拳』、『ドランクモンキー 酔拳』や、続いてローの下でジャッキーが初監督した『クレージーモンキー 笑拳』が大ヒットした。ジャッキーとウィリー・チェンは、ローがレンタル出向前に製作し完成していた『拳精』と『龍拳』を、過去のジャッキー作品が全て興行面で失敗していたために、配給会社が警戒して買わなくなっていたこともあり(『蛇拳』と『酔拳』のヒットのおかげでその後ようやく公開)、「このままローの下に戻り同じタイプの作品を製作しても駄目になる」と決心し、ローへ退社を申し出た。ところが、ローは、ジャッキーの契約書の解約違約金の項目を、10万香港ドルから「1000万香港ドル」に改ざんし、ジャッキーを逃さない手を打っていた。しかし、その後、ローの契約支配人がジャッキー側に翻身し、ローが契約書を改ざんしたことの証人となることを約束したため、ローの下での最新作『ジャッキー・チェンの醒拳』の撮影を数日で中断し、ジャッキーはゴールデン・ハーベスト社での第1作『ヤングマスター 師弟出馬』の製作を開始してしまう[注 7]

ジャッキーに契約破棄状態で逃走されたローは、黒社会を利用して、ジャッキーの強制連れ戻しを図る。ジャッキーは拉致され、ローの面前へ引き出され、ローはジャッキーに再契約を迫る。もっとも黒社会は「儲からない者は助けない」ため、ローにとっても黒社会を利用するということは、もしジャッキーとの交渉が決裂すれば、自身に危害が及ぶ危険性があることでもあった。ウィリー・チェンは、状況打開のため、各方面と交渉し、まず、ローの1000万ドル契約については(虚偽の契約であるが)、ゴールデン・ハーベスト社のレナード・ホーが「ジャッキーに対する投資」名目で解決することとなり、ローはジャッキーの契約及び未公開作品の権利をゴールデン・ハーベスト社に売却した。最も厄介な黒社会の件は、その世界と繋がりの深い元祖香港映画のドン、ジミー・ウォングに間を取り持ってもらい一件を手打ちにし、ジャッキーは黒社会に狙われることはなくなり、ローもまた黒社会と手を切ることができた。もっともその義理立てとして、ジャッキーはジミーの主演作品『ドラゴン特攻隊』、『炎の大捜査線』に準主演級で出演した。これらの作品へのノーギャラでの出演ついてジャッキーは「両方ともひどい作品だったが、借りを返すこと以上に重要なことはない」などと説明している。

この一連の事件について、当時は、ジャッキーら当事者からプレス向けに事情説明がほとんどなく「ゴールデン・ハーベストがジャッキーを強引に引き抜いた」などと言われ、「ジャッキー・ジャック事件」とゴシップとなる。日本では、『クレージーモンキー 笑拳』初公開時のパンフレットにおいて、映画評論家の日野康一が「ジャッキー・チェンをめぐる二、三の事情」と題して初めてこのトラブルに言及。この中では「恩師ロー・ウェイからゴールデン・ハーベスト社に無理矢理さらわれてしまった可哀想なモンキー」とされた。

なお、1980年代から1990年代の香港映画黄金期には、黒社会系列の映画会社が数多く跋扈しており、その後、ジャッキーは、香港映画界からの黒社会追放キャンペーンでは陣頭に立っている。その時のインタビューで「彼らに殴られたり、金を要求されたこともある」と述べた。

その他のエピソード

プロジェクト・イーグル』PRのために『笑っていいとも!』へ出演した際、南原清隆の「香港の中国返還後はどうなさるんですか?」との質問に一瞬困った形相を見せたが、笑って「1997年以降は日本に行きます。歓迎してくれますか?」と答え、周囲を驚かせた。冗談か本気かは別として、当時の情勢が垣間見える瞬間だった。

英語圏の映画レビューサイトとして有名なRotten Tomatoes(ロッテン・トマト)は、ジャッキー・チェンの一ファンであったSenh Duongが「ジャッキー・チェンのファンとして、ジャッキーの映画に関する合衆国内のレビューを残らず集めようとした時に思いついた」と、サイト発案の理由を語っている。


注釈

  1. ^ 名前の「港生(ピン音表記:Kong Sang(ゴンサン))」は(希望すれば「英国海外市民(British National Overseas、BNO)」)になることができる)『香港(Hong Kong)生まれ』であるという意味である。
  2. ^ 両親については、Charles and Lee-Lee Chan参照。彼の生い立ちは、メイベル・チャン監督の『失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン』(2002年)に詳しく、ジャッキー本人も知らない兄弟の存在など複雑な家庭環境を持ったことが紹介されている。また、この作品においてジャッキーの本名は陳港生ではなく、房仕龍(家系図上での名は房仕龍とされており、ジャッキーは唐代の宰相房玄齢の子孫だと自称している)であると明かされている。
  3. ^ 彼の青春時代を描いた、メイベル・チャン製作総指揮・脚本、アレックス・ロー監督、サモ・ハン・キンポー主演の『七小福』(1989年)では、厳しい京劇の学校での生活と、香港映画界へと進むまで姿が描かれている(ただしジャッキー本人は出演していない)。
  4. ^ アメリカでの撮影では、肝心のアクションシーンにおいて些細なシーンでも保険の問題などから監督やコーディネーターに危険と判断され香港時代のようにノースタントで自由に演じさせてもらえないなど、ハリウッドのシステムで悩んだという。
  5. ^ 韓国でも大変人気が高く、本人もたびたび韓国を訪れている。
  6. ^ 自伝『I AM JACKIE CHAN』の中で、テレサとの恋愛と別れ、亡くなった彼女に対する想いについて明かしている。なおテレサとのデュエット曲は、日本だけでなく中華圏でも大ヒットしたテレサの代表曲「時の流れに身をまかせ」の北京語版(「我只在乎你」)からテレサの歌声のみを抜き出し、ジャッキーのボーカルと合成して完成させたものである。
  7. ^ 『醒拳』は結果的にローが1983年に、ジャッキー似の俳優を使った追加撮影シーンと『笑拳』のNGフィルムなどを使用し無理やり完成させ、ジャッキー最新作として公開したため、ジャッキーは裁判沙汰にしようと考えるくらい激怒した。
  8. ^ 1990年代頃までの過去の作品はジャッキーの肉声ではなく、別の役者によって吹替えられている。これはジャッキー作品特有のものではなく、当時の香港映画界では、俳優の出身地が様々であること、俳優にポスト・プロダクションに時間を費やさせないこと、といった理由から撮影時に音声の録音をせず、後からプロの声優によって北京語・広東語・英語音声の音源を作成するシステムになっていたことによる。2012年現在では出演者本人の台詞を録音して使うことが主流となっている。また過去の作品をアメリカで公開する際はジャッキー自身の英語のセリフにより新録音され、音楽もリニューアルされることが多い(『酔拳2』『レッド・ブロンクス』『ファイナル・プロジェクト』など)。

出典

  1. ^ a b 外部リンクに映像
  2. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジャッキー・チェン」の意味・わかりやすい解説 コトバンク
  3. ^ 例として、クレイグ・グレンディ『ギネス世界記録 2014』p203(2013年9月12日初版、KADOKAWA)などに記載あり。
  4. ^ 成龍 の発音 広東語・粤語(yue)
  5. ^ The Official Website of Jackie Chan 自らの公式ウェブサイトで"Jackie Chan"とのみ名乗っている。2019年09月29日閲覧。アーカイブ
  6. ^ Recipients of Hong Kong Special Administrative Region Honours and Awards 1999 Silver Bauhinia Star (S.B.S.) 2019年9月29日閲覧。アーカイブ
  7. ^ ジャッキー・チェン(映画.com) 2019年10月01日閲覧。アーカイブ
  8. ^ ジャッキー・チェン(MovieWalker) 2019年10月01日閲覧。アーカイブ
  9. ^ a b Jackie Chan on George Stroumboulopoulos Tonight: Extended Interview ※03:26頃、エキストラ役のジャッキー・チェン(それとは判別できない)がブルース・リーを後ろから羽交い締めにし、逆にリーに首を折られるという『燃えよドラゴン』の懐かしの場面が放映される。07:45頃からジャッキー・チェンの父がスパイであった事などの秘話が始まる。2019年09月30日閲覧。
  10. ^ a b c 『ジャッキー・チェン DVDコレクション 第17号』「JCストーリー 『ブルース・リーの影』」 DeAGOSTINI〈デアゴスティーニ・シリーズ〉、2014年10月14日、12頁。雑誌コード:30211-11/11。
  11. ^ 野崎歓『香港映画の街角』青土社、310ページ。
  12. ^ “ジャッキー・チェン、アカデミー賞“名誉賞”を受賞”. cinemacafe.net. (2016年11月14日). https://www.cinemacafe.net/article/2016/11/14/44894.html 2016年12月15日閲覧。 
  13. ^ a b 成龍從來不用替身?別開玩笑了,他替身多的一卡車都裝不下!” (中国語). 2020年4月7日閲覧。
  14. ^ a b c duang,duang,duang你不知道的成龍八大黑歷史” (中国語). iFuun (2017年12月4日). 2020年4月7日閲覧。
  15. ^ .. “成龍替身拍戲多年,傷痕累累,成龍「給」他一輛法拉利表示感謝” (中国語). 新指尖日報. 2020年4月8日閲覧。
  16. ^ 成龙曾经的御用替身,邓光荣赞助他赛车,一天最高赚过2万块”. new.qq.com. 2020年4月8日閲覧。
  17. ^ やっぱりいたスタントマン!ジャッキー・チェン瓜二つの李海青はクールな「龍兄さん」―中国 (2009年3月12日)”. エキサイトニュース. 2020年4月7日閲覧。
  18. ^ 作為成龍的替身,他替成龍出生入死,到頭來卻不被成龍承認” (中国語). 2020年4月8日閲覧。
  19. ^ 揭秘成龙帅气“替身”的真实面目(图)-推荐频道-手机搜狐”. m.sohu.com. 2020年4月7日閲覧。
  20. ^ a b 堀田眞三 (2006年7月30日). “千葉真一さんの職業病”. 俳優 堀田眞三(グランパ)です。. 2010年12月24日閲覧。
  21. ^ a b c d e ふるまいよしこ (24 July 2022). "ジャッキー・チェンは今や「中国政府べったりスター」、香港映画を待つ運命". ダイヤモンド・オンライン. 2022年7月25日閲覧
  22. ^ <北京五輪>閉会式にジャッキーら総出演、ほぼぶっつけ本番で大合唱!―中国
  23. ^ “ジャッキー・チェン氏ら助言機関委員に 中国共産党”. 日本経済新聞. (2013年2月2日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0205N_S3A200C1FF8000/ 
  24. ^ “中国の政協が開幕 ジャッキー・チェンさんも登場”. 朝日新聞. (2017年3月3日). オリジナルの2017年3月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170303164330/http://www.asahi.com/articles/ASK334DQZK33UHBI01C.html 
  25. ^ “僕は紅旗の守り人 香港に安定を=ジャッキー・チェン”. Record China. (2019年8月14日). https://www.recordchina.co.jp/b737087-s16-c10-d0000.html 2019年8月16日閲覧。 
  26. ^ ジャッキー・チェンさんら、国家安全法制への支持表明:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2020年5月31日閲覧。
  27. ^ a b 高田正幸 (2021年7月12日). “「共産党員になりたい」 ジャッキー・チェン氏が発言”. 朝日新聞. オリジナルの2021年7月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210712160956/https://www.asahi.com/articles/ASP7D6HQ5P7DUHBI02G.html 
  28. ^ a b “ジャッキー・チェンに「裏切り者」の烙印 中国本土に8億円豪邸を購入”. 東京スポーツ. (2022年8月31日). オリジナルの2022年8月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220830214132/https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/4413677/ 
  29. ^ “ジャッキー「中国人は要管理」、中国人「その通り!」”. Searchina. (2009年4月20日). オリジナルの2009年4月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090423210557/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0420&f=national_0420_027.shtml 
  30. ^ “【華流】ジャッキー「TV買うなら日本製」で、納得の中国人も”. Searchina. (2009年4月20日). オリジナルの2009年4月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090421225909/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0420&f=entertainment_0420_004.shtml 
  31. ^ 「全財産をチャリティー」宣言、息子への遺産ゼロ―香港 - 2011年4月3日、レコードチャイナ
  32. ^ ジャッキー全財産を東日本大震災などに寄付 総額260億円 - 2011年4月4日、産経ニュース
  33. ^ プレスリリース:MITSUBISHI MOTORS JAPAN 三菱自動車、中国におけるブランドキャラクターとしてジャッキー・チェン氏を起用” (2007年4月20日). 2007年8月25日閲覧。
  34. ^ ルマンで総合2位の快挙!ジャッキー・チェンDCレーシングって一体どんなチーム?
  35. ^ a b 『ジャッキー・チェン DVDコレクション 第12号』「JCストーリー 『初めての挫折』」 DeAGOSTINI〈デアゴスティーニ・シリーズ〉、2014年8月5日、12頁。雑誌コード:30211-9/2。
  36. ^ a b 『ジャッキー・チェン DVDコレクション 第13号』「JCストーリー 『続く苦境の中で…』」 DeAGOSTINI〈デアゴスティーニ・シリーズ〉、2014年8月19日、12頁。雑誌コード:30211-9/16。
  37. ^ a b 鈴木常承・福永邦昭・小谷松春雄・野村正昭「"東映洋画部なくしてジャッキーなし!" ジャッキー映画、日本公開の夜明け」『ジャッキー・チェン 成龍讃歌』、辰巳出版、2017年7月20日発行、104-111頁、ISBN 978-4-7778-1754-2 
  38. ^ a b 「INTERVIEW 西城秀樹」『ジャッキー・チェン 成龍讃歌』〈タツミムック〉、39頁。 
  39. ^ 西城秀樹さん告別式にジャッキー・チェンから弔電
  40. ^ 映画『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』スプリンター役・堀内賢雄さんインタビュー|タートルズの父親的な存在のスプリンターを演じて「同じ親として気持ちがよくわかる」”. アニメイトタイムズ (2023年9月29日). 2023年12月4日閲覧。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジャッキー・チェン」の関連用語

ジャッキー・チェンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジャッキー・チェンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジャッキー・チェン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS