シッタン作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/30 08:15 UTC 版)
結果
シッタン作戦の結果、日本の第28軍は約15000人をシッタン川東岸の友軍戦線にたどり着かせることに成功した。しかし、その代償は大きく、日本軍の人的損害はペグー山系に集結したとされる34000人を基準にすると20000人近いことになる[3]。もっとも、軍参謀山口少佐の説明によると実際に撤退に参加した兵力は30872人に対して脱出後の掌握人員13953人で損害は16919人になり、第28軍の終戦直後のデータによるとこの損害には同時点での行方不明者4000人と戦病者2000人が含まれている可能性があるため、その場合の戦死者は約11000人となる[2]。一方、イギリス軍の推定では日本軍の戦死者・行方不明者は12000人である[4]。また、投降を非常に嫌った日本軍には珍しく、740人もの捕虜が出ている[4]。対するイギリス軍の損害は、戦死95人及び戦傷322人と極めて僅少であった[4]。なお、イギリス第14軍司令官のウィリアム・スリム中将は、桜井第28軍司令官について、輸送力を欠いたあのような部隊で組織的な脱出を試みたにしてはまことによくやったと賞賛している[4]。
牽制攻撃を担当した第33軍の損害は比較的軽く、うち第18師団の死傷者320人であった。イギリス軍に日本側の作戦計画が漏洩していたこと[4]、第33軍司令部と第28軍司令部の間の通信状態が不良で脱出開始日時が適切に伝わらず、牽制攻撃の開始が早すぎたことなどから、イギリス軍の戦力を引きつけて渡河を助けるという目的は達成できなかった[1]。
本作戦の意義について、『戦史叢書』は、終戦がもう1ヶ月早ければ10000人近い将兵の命が助かったであろうとしつつ、結果論であって仕方がないとまとめている[45]。戦史研究家のルイ・アレンも、もし戦争が続いていたのであれば、半数の兵力を失っても半数の将兵を救って再び戦えることで意義があったであろうが、直後の終戦で無駄死になったと評価している[2]。イギリス側からの意義付けとして、スリム中将は、第28軍を撃破したのみならずビルマにおける全日本軍の敢闘精神に致命的打撃を与えたと述べている[4]。
注釈
- ^ 第28軍作戦主任参謀の福富繁少佐は独断で撤退を計画した理由として、緬甸方面軍司令部がラングーン脱出に際して具体的指導案を示さず参謀派遣も拒否したこと、ペグー山系の食糧事情から長期戦は困難と思われたことを挙げている[10]。
- ^ a b 第55師団は以前に第28軍に属してイラワジデルタに展開していたが、イラワジ会戦末期に師団主力は北上して第33軍の指揮下に移ることになった。その際にイラワジデルタに残置された守備隊が振武兵団であり、第55歩兵団司令部(歩兵団長:長澤貫一少将)、歩兵第143連隊(1個大隊欠)、歩兵第144連隊の2個中隊、騎兵第55連隊の1個小隊、山砲兵第55連隊(2個大隊欠)、輜重兵第55連隊の1個中隊、師団衛生隊の3分の1、防疫給水部の一部、第4野戦病院から成る[11]。
- ^ 第14野戦輸送司令官の清治平少将指揮。輜重兵中隊2個、集成自動車中隊1個、独立自動車大隊1個、独立自動車中隊1個、独立輜重兵大隊1個、野戦道路隊1個、陸上勤務中隊のうち1個小隊から成る[19]。
- ^ 馬場部隊は、歩兵第121連隊(連隊長:馬場進大佐)主力のほか捜索第54連隊第4中隊、野砲兵第54連隊第3大隊、工兵第54連隊の一部から成る[21]。
- ^ 神威部隊は騎兵第55連隊長・杉本泰雄大佐を指揮官とし、5月14日に移動開始時点で騎兵第55連隊主力、歩兵第143連隊第1大隊、山砲兵第55連隊第1大隊その他から成った[27]。
- ^ ラングーン駐屯の第12警備隊等とミャンミャ駐屯の第13警備隊主力から成る連合陸戦隊で、2月18日以降、陸上戦闘について陸軍の緬甸方面軍の指揮下に入ることになっていた。なお、第13根拠地隊のうち田中頼三中将以下の司令部人員は緬甸方面軍司令部と同じくモールメンに先行しており、非戦闘員を含む約400人は魚雷艇・大発動艇などの残存艦艇で海路後退していた[29]。
出典
- ^ a b c d e アレン(1995年)、103-105頁。
- ^ a b c d アレン(1995年)、付録5-6頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、423頁。
- ^ a b c d e f g h i 防衛庁防衛研修所(1969年)、472-473頁。
- ^ アレン(1995年)、105頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、330-331頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、312頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、270-271頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、268-269頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、273-276頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、89頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、310-311頁。
- ^ a b c 防衛庁防衛研修所(1969年)、356-359頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、431-432頁。
- ^ アレン(1995年)、96頁。
- ^ a b c d e f g h i j k アレン(1995年)、112-119頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、376頁。
- ^ アレン(1995年)、75頁。
- ^ a b c 防衛庁防衛研修所(1969年)、429-430頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、361頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、299頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、364-365頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、440頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、299、305頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、446-448頁。
- ^ アレン(1995年)、95頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、377-379頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、438-439頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、353-354頁。
- ^ a b c d 防衛庁防衛研修所(1969年)、450-454頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、284-285頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、426頁。
- ^ a b c 防衛庁防衛研修所(1969年)、415-417頁。
- ^ a b c 防衛庁防衛研修所(1969年)、409-413頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、418-420頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、476頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、456-457頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、459、463頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、469-470頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、471頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、479頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、481頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、478頁。
- ^ アレン(1995年)、128頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、483頁。
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