サンサポールの戦い
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上陸後
サンサポール地区を制圧した連合軍は、ミッテルバーグ島に戦闘機用基地、サンサポールおよびマル地区に爆撃機用基地の設営を開始し、基地は第13空軍によって運用されることとなった[12]。前者は8月7日に使用可能となって9月8日に完成し、後者は9月3日に供用を開始して9月の末には完成を見た[13]。航空基地の完成は、ソロン方面の日本側の制空権が失われたことを意味し、セラム島、ハルマヘラ、セレベスおよびミンダナオ島の制空権も著しく衰退した[14]。また、ソロンとマノクワリ間の交通も完全に遮断されてマノクワリ方面の日本軍部隊は以降、自給自足の生活を余儀なくされることとなった[14]。
サンサポール地区は、連合軍がフィリピンに進んだあとも後方補給基地やセレベス、セラム方面への航空圧力のための基地として活用されていた[15]。戦線がサンサポールから遠ざかった1945年3月上旬から中旬にかけて、第三十五師団の一部が攻勢をとって連合軍の牽制を開始したが、その過程で一つのことが明らかになった[15]。第三十五師団の牽制作戦が行われたころのサンサポール地区の航空基地は、使われている形跡がなかった[16]。第三十五師団から報告を受けた第七飛行師団から偵察機が飛ばされたが、一時は300機もいた航空機はその姿なく滑走路も破壊されており、サンサポール地区が基地として利用されていないことが明らかとなった[16]。この報を受け、第三十五師団の作戦も打ち切られて監視部隊のみを残し、ソロンに撤退していった[17]。
連合軍は4月下旬のホーランジアの戦いからサンサポール地区の確保まで、約550マイルの距離を、アイランドホッピング戦法でわずか3か月で踏破した[18]。サンサポールこそは、マッカーサーがフィリピンへの帰還を果たすためにニューギニア島に設けられた最後の拠点であり[19]、マッカーサーがコレヒドール島を脱出後も夢にも忘れなかったフィリピンは、サンサポールから北モルッカとタラウド諸島を挟んで500マイル離れた彼方にあったが[20]、それはホーランジアからサンサポールまでの距離と大して変わらなかった。
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- ^ “西部ニューギニア・マノクワリ→イドレ転進作戦 イドレ河(3)”. インドネシア文化宮(GBI-Tokyo). METRO TV(インドネシア)東京支局. 2013年4月8日閲覧。
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- ^ #モリソン p.277
- ^ #ニミッツ、ポッター p.259
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