クンワル・シング クンワル・シングの概要

クンワル・シング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/23 02:58 UTC 版)

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クンワル・シング

80歳の時にインド大反乱に参加し、ビハール地方での反乱軍を指揮し、イギリスと果敢に戦ったものの敗れて戦死した[1]。死後、大反乱の英雄の一人に列せられている。

生涯

若年期

1777年11月、クンワル・シングはビハールジャグディーシュプルを支配したザミーンダールの息子として生まれた。その家系はさかのぼるとウッジャインラージプートに属するものであった。

時期は不明ながら、クンワル・シングはガヤーの富裕なザミーンダール・ファテー・ナーラーヤン・シングの娘と結婚した。この人物の祖先はメーワール王国の英雄プラタープ・シングにさかのぼる。

インド大反乱において

クンワール・シングと廷臣

1857年5月、インド大反乱が勃発すると、クンワル・シングは80歳の老齢にもかかわらず、イギリス打倒に立ち上がった。彼はビハール地方の反乱軍を指揮し、シヴァージーのようにゲリラ戦を展開し、イギリス軍を大いに苦しめた。

クンワル・シングはビハール各地を転戦していたが、1857年12月にはラクナウに到着し、1858年3月まで反乱軍とともに戦った。ラクナウ陥落後、同月にはアーザムガルを占領した[2]

だが、イギリスによってアーザムガルは奪還され、クンワル・シングは本拠地ジャグディーシュプルへと帰還した。

敗北と死

1858年4月23日、クンワル・シングはジャグディーシュプルに攻撃をかけたイギリス軍と戦いで重傷を負った。この結果、ジャグディーシュプルはイギリスに占拠された。

クンワル・シングはジャグディーシュプルの宮殿に避難したが、同月26日に死亡した[3]

だが、クンワル・シングの戦いは後世の人々に受け継がれ、のちのインド独立運動の原動力となった。インド独立後、1966年4月23日に彼の切手が発行されたばかりか[4]1992年にはヴィール・クンワル・シング大学設立された[5]

関連項目


  1. ^ कुंवर सिंह (Kunwar Singh)”. 2013年3月30日閲覧。
  2. ^ Bibliography Veer Kunwar Singh – Hero of 1857 revolts against British imperialists. By Ankur Bhadauria,2008
  3. ^ 1857 – A Story on Stamps. Indiapicks.com. Retrieved on 2011-10-12.
  4. ^ Stemp at Indiapost. Indianpost.com (1966-04-23). Retrieved on 2011-10-12.
  5. ^ Veer Kunwar Singh University. Vksu-ara.org (1992-10-22). Retrieved on 2011-10-12.


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