クロード・ロラン 生涯

クロード・ロラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 01:37 UTC 版)

生涯

初期

ロランは1604年または5年にロレーヌ地方、シャマーニュの貧しい家に5人兄弟の一人として生まれた。12歳で孤児になり木彫り職人で兄のジャン・ジュレとフライブルクに移住した。その後、彼は生計を立てるためローマ、さらにナポリへと移住した。1619年から1621年までナポリでゴフレード・ウァルスの許で修行する。1625年の4月ローマに戻りアゴスティーノ・タッシに師事。タッシの許を離れた後、幾多の災難に見舞われながらも、生地ロレーヌ地方の他、イタリアフランスドイツを旅した。ロレーヌ公の宮廷画家カール・ダーバントはロランを1年間助手として雇っており。ナンシーではカルメル会教会の天井に建築物を描いている。

円熟期

『海港(メディチ邸)』(1637)
『村祭り』(1639)

1627年、ロランはローマに戻り、グイード・ベンティボグリオの為に描いた二つの風景画によりウルバヌス8世をパトロンにする。1637年頃からは急速に風景画家、海景画家としての名声を高めていく。同じフランス人のニコラ・プッサンとも交友があり、カンパーニャ・ロマーナを共に旅している。二人共、風景画家と呼ばれているが、プッサンの風景は人物の背景である一方、ロランの絵では人物は片隅に描かれるものの、絵の本当の主題は陸地、海、空である。他の画家に人物の描画をしばしば依頼しており、その中にはジャック・クルトワフィリッポ・ラウリが含まれる。絵の購入者には、自分は風景を売ったが人物はおまけだと言っていた。

同じ主題の繰り返しを避ける目的と、自分の作品の良質な複製を提供するため、彼は各国に送られた自分のほぼ全ての作品を淡彩入りのドローイングで複製し裏面には購入者の名前を記載した。ドローイングをまとめて本を出し、この本をロランは『真実の書(Liber Veritatis)』と名づけた。この貴重な作品は銅版画に複製出版され、後の風景画家の模範となる。痛風に苦しんだ彼は、1682年の11月21日もしくは23日に亡くなり、トリニタ・アル・モンテ(Trinità al Monte)の頂に葬られた。彼の莫大な遺産は、甥と養子の娘(姪の可能性あり)に残された。


  1. ^ Royal Collection
  2. ^ Beckett, Discourses, pp. 52–53; [1]





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