クレイジー・ホース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 15:43 UTC 版)
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タシュンケウィトコ、通称クレイジー・ホースは1840年頃に、現在のサウスダコタにあるベア・ビュット近くのベル・フーシェ川のそばで生まれた。クレイジー・ホースと親しかった「ホーン・チップス」、または「エンコーラジング・ベアー」という名のスー族の呪い師は、スー族がショーショーニー族から大量の馬を盗んだ年が、クレイジー・ホースが生まれた年だと考え、証言したので、彼の誕生年は「1840年」ということになっている。しかし実際は、この「大襲撃」は、1841年の出来事である。
父親(1810年生)はオグララ・スー族の呪い師で、戦士ではなかった。その治癒術が非常に評判がよく、戦士である必要がなかったのである。母親ラトリング・ブランケット・ウーマン(1814年生)はシチャング(ブルーレ)・スー族だった。彼は幼い頃からシチャング族やシャイアン族のキャンプを出入りしていた。
彼の名は正式には「タ・シュンカワカン・ウィトコ(彼の奇妙な馬)」である。略して「タシュンケ・ウィトコ」と呼ばれることが多い。幼児期は「くせ毛」と呼ばれていた。「タシュンケ・ウィトコ」は代々受け継ぐ名であり、手柄を立てればこの名が譲られた。彼の父も、この名が譲られるまでは「ワグルラ(みみず)」という名だった。息子にこの名を譲った後、彼の父はまた「みみず」という名に戻った。
少年時代から馬を盗む(インディアンにとっての栄誉あるスポーツである)のが非常に上手く、「ヒズ・ホーシズ・ルッキング(彼はすぐれた馬の見立てだ)」という名で呼ばれていた時期がある。
彼自身は、部族の儀式やしきたりに興味を持たず、参加もしなかった。同じインディアンの仲間からも常に距離を置き、「一匹狼」の姿勢を貫いた。放浪癖があり、しばしば姿を消し、瞑想に耽った。白人と接することを非常に嫌い、このため写真に写ることもなかった。彼の肖像は残されていない。が、その肌の色は非常に明るく、小柄だがハンサムだったという。少年時代の親友たちは、彼を「肌の明るい少年」と呼んでいた。
友人のスー族戦士ショート・バッファローは、クレイジー・ホースについて、「背は高くなく、またそれほど低くもなかった。太っても痩せてもいない。彼の髪の色は非常に明るく、顔色も他のインディアンよりずっと明るかった。顔の幅は広くはなく、高く鋭い鼻を持っていた。彼の黒い目は人をまっすぐ見ることはほとんどなかったが、何者をも見逃さなかった」と語っている。
白人との戦いが激化し、「皮シャツを着る者」を選ぶ儀式が復活したとき、この名誉ある地位に任ぜられた四人の戦士のひとりとなった。が、これ以外に正式な地位にあったことはない。ひとつには、彼の家柄が部族の中では名門ではなく、また名門家のレッド・クラウドと反目しあう関係だったことがある。が、白人との妥協を拒む主戦派として主要な立場にあった。ちなみに、完全な個人主義であるスー族の文化には、戦法を誰かが指示するような「戦争指導者」という立場はない。
レッド・クラウドの姪であるブラック・バッファロー・ウーマン(ウィンヤン・ワカン・サパ)に恋焦がれていたが、レッド・クラウドは彼女をクレイジー・ホースの友人ノー・ウォーターと結婚させた。その後もクレイジー・ホースの想いは止まず、今で言うストーカー行為をしていた。
1870年、クレイジー・ホースは彼女と駆け落ちをしたが、ノー・ウォーターは彼らを追い、その日の晩には彼らを見つけ、二人が寝ているティーピーに押し入って、クレイジー・ホースの心臓目がけて銃を撃った。このとき、友人のタッチ・ザ・クラウドがとっさにノー・ウォーターを押さえたので弾は逸れて上顎に当たり、クレイジー・ホースは大怪我を負った。完全個人主義のスー族では、女性が離婚するのはまったくの自由であり、ノーウォーターのこの行いは、スー族のしきたりを破るものである。長老たちはノー・ウォーターに賠償として馬を三頭クレイジー・ホースに譲らせ、またクレイジー・ホースも「皮シャツを着る者」の職を解任された。ブラック・バッファロー・ウーマンの4番目の娘は、非常に肌の色が明るく、恐らくクレイジー・ホースの子と思われる。
そののち、部族のとりなしでブラック・ショールという女性を妻に娶る。彼女は結核に罹り、彼女を親切に治療したヴァレンタイン・マクギリカッディ博士とは、白人としては例外的に友交を結んだ。マクギリカッディはクレイジー・ホースを看取った医者となった。また後に保留地監督官に任ぜられ、スー族を苦しめることとなる。
彼女との間に「ゼイ・アー・アフレイド・オブ・ハー(They Are Afraid of Her)」という娘をもうけたが、幼くしてコレラで亡くし、失意の中しばらく戦の場から離れる。二人目の妻には、ネリー・ララビーというシャイアン族とフランス人の混血女性を迎えた。
彼のヴィジョン
1854年、12歳の時にグラッタン中尉によってコンクァーリング・ベアー酋長たちが虐殺されるのを見た(グラッタンの虐殺)。これを契機に、一人で山に分け入り、岩の上に座禅を組んで[1]「ハンブレチア(ヴィジョン・クエスト)」を行い、ヴィジョン(幻視)を得た。ヴィジョンの中で、ふわふわと影の様に踊り回る奇妙な馬に乗り、顔と体に不思議な模様を描いた男性が現れ、彼に様々な啓示を与えた。父親の名もタ・シュンカワカン・ウィトコだったが、のちにこの夢のことを聞き、啓示のその中の男性が息子だと確信して、すぐさま父親は自分の名を息子に譲ったのである。
このときの幻視で、二つのタブーを得た。それは「他人に腕を捉まれてはいけない」というものと、「自分のための物を持たない」というものである。このタブーを破った際、白人の頭の皮を剥いだことで大怪我をし、二度目は白人に腕を捉まれたことで刺殺されたのである。ノー・ウォーターに撃たれた際がどうだったのかは伝わっていない。
また、「常に質素ないでたちでいるように」との啓示も受けた。このため、彼の服装はいつも必要最小限で、彼を描いた映画や絵画にあるように、派手な羽根冠をつけて戦に出るようなことは一度もなかったとハンプやヒー・ドッグ、ブラック・エルクら近しい者たちは揃って証言している。「常に弱きものを助け、分け与えよ」との啓示を受け、生涯それを実行した。そのために、彼は部族の中の弱い立場の人たちから熱烈に愛された。
戦では負傷したことがないが、スー族の伝統派呪い師であるレイムディアーやレオナルド・クロウドッグによれば、これはクレイジー・ホースが最初のヴィジョンとともに不思議な力をもつ小石を得ていて、戦の際は必ず耳の後ろに挟んでいたおかげだという[2]。スー族は彼を、「われらの稀有なる男」と呼んでいた。
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- ^ 普通は呪い師に同行してもらう
- ^ 『Lame Deer, Seeker of Visions』(レイムディアー、リチャード・アードス共著、1972年)、『魂の指導者クロウドッグ』(レオナルド・クロウドッグ、リチャード・アードス共著、サンマーク出版)
- ^ ラリー・マクマートリー著『クレイジー・ホース』
- ^ フロリダにあった、当時インディアン専用の監獄島
- 1 クレイジー・ホースとは
- 2 クレイジー・ホースの概要
- 3 戦歴
- 4 関連作品
クレイジー・ホース (曖昧さ回避)
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クレイジー・ホース (Crazy Horse)
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