カルロス・P・ロムロ 若年期

カルロス・P・ロムロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 04:38 UTC 版)

若年期

アメリカ植民地時代のフィリピン・タルラック州カミリング英語版で生まれ、カミリング中央小学校で学んだ。

フィリピンとアメリカで学び、1923年にフィリピン大学の英語教授に就任した。同時に、フィリピン上院議長マニュエル・ケソンの秘書を務めた。1930年代、ロムロは『フィリピン・ヘラルド』紙の発行人兼編集者となった。第二次世界大戦が始まると、ダグラス・マッカーサー元帥の側近として活躍し、終戦時には元帥の地位に就いた[1][2]。1942年にはアメリカ人以外で初めて通信分野のピューリッツァー賞を受賞した。ピューリッツァー賞のウェブサイトによると、『フィリピン・ヘラルド』紙のカルロス・P・ロムロの受賞理由は、「香港からバタビアまでのトラブルの中心地を巡って極東の動きを観察し、予測したことに対して」とある[3]

外交官としてのキャリア

ロムロは、マニュエル・ケソンからフェルディナンド・マルコスまで、8人のフィリピン大統領に仕え、フィリピンの外務長官や駐米大使・国連大使として活躍した。また、フィリピン・コモンウェルス(自治政府)時代には、アメリカ下院の常駐委員も務めた。1962年から1968年まで、ディオスダド・マカパガル大統領とフェルディナンド・マルコス大統領の内閣で教育長官を務めた[4][5]

下院常駐代表

ロムロは、1944年から1946年までアメリカ下院のフィリピン常駐代表を務めた。これは、米西戦争によりアメリカ領となった地域における投票権のない代議士の肩書きである。在任中にフィリピンが独立したため、ロムロはアメリカ合衆国からの脱退によって任期を終えた唯一の連邦議会議員となった。

国連

ロムロは、国連でのキャリアにおいて、人権、自由、脱植民地化を強く主張した。1948年、フランス・パリで開催された第3回国連総会では、アンドレイ・ヴィシンスキー率いるソ連代表団の提案に強く反対した。ヴィシンスキーは、「あなたは小さな国の小さな男に過ぎない」とロムロを侮辱した。ロムロは、「威張っているゴリアテの目に真実の小石を投げつけて行動させるのは、この世の小さなダビデの義務だ」と返し、ヴィシンスキーにはただ座っていることしかできなかった[6]

パレスチナ分割決議

ロムロは、パレスチナ分割提案の国連総会での採決を前にして、「私たちは、この問題は主に道徳的なものだと考えています。パレスチナの人々の有効な民族主義的願望に明らかに反している政策の実施について、国連が責任を負うべきかどうかという問題です。フィリピン政府は、国連がそのような責任を負うべきではないと考えています」と述べた。ロムロは明らかに、分割案に反対票を投ずるか、せめて棄権するつもりだった。しかし、アメリカ政府からのフィリピン政府への圧力により、ロムロは召還され、代わりに分割案に賛成のフィリピン代表が任命された。

国連総会議長

1949年から1950年にかけて、アジア人として初めて国連総会議長を務めた。また、1957年に2回、1980年、1981年に4回、国連安全保障理事会議長を務めた[7]

事務総長選挙

ロムロは1953年の国際連合事務総長の選出に立候補した。しかし、安全保障理事会で過半数の7票の賛成票を得ることができず、さらに、拒否権を持つ常任理事国であるフランスとソ連が反対票を投じていた[8]。結局、安保理はダークホース的存在のダグ・ハマーショルドを国連事務総長に選出した。

駐米大使

ロムロは、1952年1月から1953年5月まで、および1955年9月から1962年2月まで、駐米大使を務めた[9]

フィリピンでのキャリア

大統領選

1953年、駐米大使の任期を終えてフィリピンに戻ったロムロは、自由党の大統領候補として指名を受けたが、党大会では現職のエルピディオ・キリノに敗れた。キリノは党大会での無記名投票に同意していたが、大会開会後、キリノは公開点呼投票を要求したため、代議員たちはキリノを支持するしかなかったのである。裏切られたと感じたロムロは、自由党を離党し、対立する国民党英語版の候補者であるラモン・マグサイサイ陣営に加わった。マグサイサイはキリノに大差をつけて勝利した。

ロムロの肖像画(1945年)

外務大臣

1950年から1952年までエルピディオ・キリノ政権で、1963年から1964年までディオスダド・マカパガル政権で、1968年から1984年までフェルディナンド・マルコス政権で、フィリピンの外務長官(1973年から1984年までは外務大臣)を務めた。1955年4月、バンドンで開催されたアジア・アフリカ会議にフィリピン代表団を率いて参加した。

マルコス政権下における辞任

ロムロは、フェルディナンド・マルコス大統領の任期のほとんどを閣僚として支えた。しかし、ベニグノ・アキノが暗殺された直後の1983年、体調不良を理由に辞任した。1984年のグレゴリオ・C・ブリランテス英語版のインタビューに対して、友人と思っていたアキノが暗殺され、その結果、フィリピンの経済的・国際的評価が急落したことで、心を病んで辞職したと語っている[10]

妻のベス・デイ・ロムロによると、マルコス政権は、『ニューヨーク・タイムズ』などの国際的な主要日刊紙に掲載する予定の広告に署名するようロムロに求めていたという。ロムロはその広告への署名を拒否して辞任した[11]


  1. ^ Kaminski, Theresa (2016). Angels of the Underground. New York: Oxford University Press. pp. 29–30. ISBN 9780199928248 
  2. ^ Panlilio, Yay (1950). The Crucible: An Autobiography by Colonel Yay, Filipina American Guerrilla. New Brunswick: Rutgers University Press. pp. 12–13,128,292,297. ISBN 9780813546827 
  3. ^ Carlos P. Romulo of Philippines Herald” (英語). www.pulitzer.org. 2021年6月16日閲覧。
  4. ^ Archived copy”. 2011年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月26日閲覧。
  5. ^ Archived copy”. 2013年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月26日閲覧。
  6. ^ What is the Filipino Leader?”. EDIzine: EDI-Staffbuilder's Official Online Newsletter. 2016年1月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年1月22日閲覧。
  7. ^ Dag Hammarskjöld Library. Retrieved 7 September 2013
  8. ^ Hamilton, Thomas J. (1953年3月13日). “Soviet Veto Blocks Pearson U.N. Boom; Romulo Also Fails”. The New York Times 
  9. ^ Archived copy”. 2014年10月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月11日閲覧。
  10. ^ Brillantes, Gregorio. The Twilight of the General. National Midweek Vol. 1 No. 9. January 1, 1986.
  11. ^ Romulo, Beth Day (2017-11-01) (英語). The Writer, the Lover and the Diplomat: Life with Carlos P. Romulo. Anvil Publishing, Inc.. ISBN 9789712731433. https://books.google.com/books?id=gTWWDwAAQBAJ&q=carlos%2520romulo%2520resigned%2520marcos%2520cabinet&pg=PT179 
  12. ^ Pace, Eric (1985年12月16日). “CARLOS P. ROMULO OF PHILIPPINES DIES”. https://www.nytimes.com/1985/12/16/world/carlos-p-romulo-of-philippines-dies.html?pagewanted=all 2017年4月11日閲覧。 
  13. ^ Nomination Archive”. nobelprize.org. 2020年3月23日閲覧。


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