エーリヒ・ハルトマン
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戦術
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ハルトマンは「第二次世界大戦で最も撃墜数が多かったエース・パイロット」だが、それはパイロット個人の技量が優れていたというだけではなく、確立された「空中戦闘法」があったからこそ得られた結果である。
戦況
東部戦線においてのドイツの戦闘機パイロットは、ハルトマンに限らず驚異的な戦果をあげている。太平洋戦争において日本やアメリカのトップエースで100機以上の撃墜記録を持つ者は極稀であるが、東部戦線でのドイツ空軍の戦闘機パイロットは、100機を撃墜してようやく一人前、一流と呼ばれるには150機からという世界だったのである。ハルトマンの先輩たちは、戦闘機の性能が絶対的に優位な期間に撃墜数を大きく伸ばしていたといえる。その理由には以下のものが挙げられる。
- 戦闘空域までの距離が短く一日に何度も出撃できた(対して海戦が大半を占めた太平洋戦線では、連日の出撃すら稀である)
- ソ連軍機の数はドイツ軍より多数であったが技術及び戦術的練度が低い上、地上部隊との直協任務を主体としており低空を飛んでいることが多いため、ベテランパイロットからすれば落としやすい相手だった。
- ソ連軍機は雑多な機体の寄せ集めで旧式機が多く、それに対してドイツ軍機は、高性能のメッサーシュミットBf109でほぼ統一されていた。
- 東部戦線は陸上で至近距離の戦闘であり、撃墜された場合にも脱出、あるいは不時着し、徒歩で帰還可能であり、何度も再戦できた。機体についても回収可能であれば同様である。被弾した機体のパイロットもそれを意図して、飛行継続可能であっても早々に不時着し、それら機体も撃墜数として数えられた(対して太平洋戦線では、洋上で撃墜された場合、生還の可能性は極めて低い。被弾したパイロットも飛行継続可能であれば、何とか帰還しようとし、撃墜数には数えられない)。
それに対してハルトマンが実戦部隊に配属された1942年末には、ソ連も新鋭機を続々と投入するまでに盛り返しており、緒戦で高性能を誇ったBf109も徐々に陳腐化しており(新型機であるフォッケウルフ Fw190の実戦投入も行われた)、戦闘機の性能上の優位はそれほどなくなっていた。それにもかかわらずそれからわずか2年半で、20歳を過ぎたばかりの若年パイロットでありながら、Bf109を駆って352機撃墜という不滅の記録を達成したのである。
ただ、1.と4.の事情は1942年以降も同様であり、ハルトマンは初出撃の際、燃料切れで不時着し、また撃墜した敵機の破片を浴びてソ連戦線内に不時着してソ連兵に捕まったこともあるが、脱出して徒歩で生還して再戦の機会を得ている。
戦闘アプローチ
初陣の小隊リーダー機ロスマン曹長の強い影響を受けたハルトマンは「観察―決定―攻撃―反復」というモットーを持っていた。敵を観察し、攻撃をどのように進めるかを決定し、攻撃を行い、その後、状況を再評価し反復していた。
初期の戦闘では小隊長のロスマン曹長の強い影響から、僚機を絶対に見捨てないことを教わった。次に、ロスマン曹長の後のクルピンスキ中隊長からは、敵機に確実に弾を当てる為に近接射撃の有効性を知った。さらにこの戦闘法をより洗練させるため、索敵して発見した敵機編隊(主に低空侵入してくるソ連空軍地上攻撃機隊と上空で攻撃機の護衛をする戦闘機の混合部隊)に気付かれずに接近する方法(雲や逆光を利用する)、どれだけ自機と敵機の高度差を取るか、どのようなタイミングでダイブを仕掛けて攻撃を加えるのが最大戦果を生むか、その後に編隊指揮者になってからは、どうすれば僚機の損失を抑えられるかといった戦術の問題点を洗い出しながら、様々なシチュエーションによる攻撃方法と不確定要素への対策を検討し、戦果を拡大する半面僚機の損失を抑えた。彼は以後この戦闘法に徹し、ドイツ敗北までの1405回の出撃を果たした。また、養成期間ですでに明らかになったように、ハルトマンは射撃技術に秀でていたため、遠距離からの射撃で敵を撃墜して編隊を混乱させ、一航過で複数機を撃墜する特技も発揮した。またBf109戦闘機のエンジンの特性を生かしたマイナスGでの旋回による離脱を切り札として編み出した。
撃墜内容
上述の通り1942年末からは、ソ連軍も次々と新鋭機を投入していた時期である。ハルトマンの撃墜内容については、ドイツにある彼の個人戦闘記録[注釈 1]やJG52の戦闘記録等により判明している範囲ではLa-5が一番多く85機、P-39が29機で二番目に多い。この他にYak-1(9機)、Yak-7(8機)やソ連パイロットから「保証付き木製棺桶」(лакированный гарантированный гроб)と言われ、粗製乱造によって額面通りの性能が出ない木製戦闘機LaGG-3(7機)等が続く。また対爆撃機攻撃は苦手としており、西部戦線への配属がなかったこともあって4発重爆は1機も落としたことが無く、どんなに地上部隊が苦戦していても落とすのが難しいIl-2にはあまり手を出さなかった(6機撃墜)。ただし、当然ながらハルトマンのためにわざわざソ連が低性能機を選んで差し向ける事などあろうはずがなく、相対する敵から撃墜しやすい機体を選んで攻撃する事も、相応の技量を要する。また苦手な戦術を採らないのも、戦闘機乗りとしてひとつの見識である。なおハルトマンは高性能機であるP-51Dを撃墜していると主張しているが、機体番号及びパイロットの氏名が不明であるため裏付けが取れていない。
信条
ハルトマンは「僚機を失った者は戦術的に負けている」ことを教訓として指摘している。また彼は、妻のウルスラへの手紙の中で「自分は歴代最高の撃墜数よりも、一度も僚機を失わなかった[注釈 2]ことの方を誇りに思っている」と語っている。
- ^ 初撃墜から150機撃墜までの記録が残っている。352機までの記録も存在したが、こちらは終戦時に米軍あるいはチェコスロバキア軍により接収され行方不明
- ^ 但し一度だけ僚機が撃墜された事がある。戦争末期戦闘機パイロットの補充のため爆撃機パイロットであったギュンター・カピト少佐が機種転換訓練も受けずにハルトマンの戦隊に配属された。ハルトマンは出撃しても生き残れないと考え彼の出撃を制限していたが、10歳以上年長でかつ階級も上の彼の出撃を認めよとの催促に負けて僚機として出撃を許可した。しかし、彼はソ連のエースパイロット機に撃墜されてしまう。幸い不時着し事無きを得た。なお、戦後ハルトマンと一緒に捕虜となり10年抑留生活を送ったが、彼はハルトマンに対してこの時のことについて感謝の意を示している。事実、ハルトマンの僚機を務めた者で彼と行動中に戦死した者はいない。
固有名詞の分類
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