ウダイ・サッダーム・フセイン
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殺人
1988年8月、エジプトのホスニー・ムバーラク大統領夫人スーザーン・ムバーラクがイラクを訪問。スーザーンとサージダ・ハイラッラーは意気投合し、二人はこの夜、迎賓館で眠りについた。迎賓館のすぐ近くには、豪華なゲストハウスがあり、そこではサッダームの信任厚い側近のカーミル・ハンナ・ジョジョが仲間と共にイラン・イラク戦争終結を祝う宴会を開いていた。ウダイは別のゲストハウスに住んでいたが、サージダとスーザーンが宴会での大音量の音楽と、酔った勢いで銃を空に向けて発砲した音で起きてしまうと、護衛の一人に静かにするようにと伝令させたが、宴会の騒ぎは収まらず、個人秘書ザファール・ムハンマド・ジャービルや護衛と共に騒ぎを止めに出かけた。
会場に付くや否や、ウダイは酔いつぶれたハンナと口論になり、手に持っていた象牙のステッキで殴りつけた。ハンナは床に倒れたが、ウダイは酔った勢いで倒れたのだと思い込んでいたという。翌朝、サッダームがウダイに電話をかけ、ハンナが死亡したことを告げた。この時、サッダームは息子の狼藉とお気に入りの側近を殺されたことに怒り狂っており、放っておけば自らウダイを殺しかねない勢いだったという。異父弟のバルザーン・イブラーヒーム・ハサンの助言で、ひとまずウダイの処遇を裁判所に委ねることに同意した。
一方、ウダイは事件にショックを受け、睡眠薬を多量に服用して自殺を図ったが、一命を取り留めた。病院を退院すると、ウダイは自宅に篭城し、サッダームの警護官が彼を捕らえるために自宅を訪れると発砲してくるなど、まだ精神状態が不安定であり、サッダームは数日間放置した。海外に事件が報道されると、国内にも公表せざるをえなくなり、サッダームは事件の特別委員会を設置、委員会が有罪と判定すれば、ウダイを裁判所に引き渡すとした。
サッダームは、ウダイが悪い友人たちと付き合っていた故に、自分を見失い、狼藉を働いたに違いないと思い込んでいた。しかし、ウダイの友人らの聞き取りの結果、父であるサッダームさえ知らなかったウダイの堕落した生活が明らかになり、失望したとされる。
サッダームはウダイを全ての公的職から解任する。当時のウダイの肩書はイラク・オリンピック委員会会長、イラク・サッカー協会会長、サッダーム・フセイン科学技術大学学長だった。
ウダイは陸軍の刑務所に収監されることになった。だが、その刑務所長はウダイの母方の従兄弟で、ウダイは独房ではなく兵舎に収容され、数週間後には、バグダードのラドワニーヤ地区にあるサッダーム個人の屋敷に収監されるなど特別扱いであった。独房にはサッダームと母サージダが交代に泊まりに来て、一緒に眠ったという。わずか46日でウダイは釈放された。
ヨルダンのフセイン1世国王が事件解決の仲介を行ったこともあり、サッダームはカーミル・ハンナの遺族を共和国宮殿に招待し、遺族がウダイの助命を求めるという和解のシーンを国営テレビで放送した。それらは、部族社会のイラクでは伝統的な和解方法に則ったものだった。またサッダームの親族や側近らも減刑を求めた。結局、ウダイが裁判所に引き渡されることは無かった。
- ^ Latif Yahia; Karl Wendl (1997). I Was Saddam's Son (in English). Little, Brown and Company. p. 297. ISBN 978-155-970-373-4.
- ^ Pacepa, p.63
- ^ 大住良之著『アジア最終予選 サッカー日本代表 2006ワールドカップへの戦い』P217
- ^ パトリック・コバーン・アンドリュー・コバーン著「灰の中から サダム・フセインのイラク」 391頁
- ^ “Son was ready to topple Saddam” (英語). シドニー・モーニング・ヘラルド. (2005年3月4日)
- ^ 日本経済新聞. (2003年8月5日)
- ^ 読売新聞. (2003年7月24日)
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