ウィルズ・ヒル (初代ダウンシャー侯爵) ウィルズ・ヒル (初代ダウンシャー侯爵)の概要

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ウィルズ・ヒル (初代ダウンシャー侯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 07:15 UTC 版)

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初代ダウンシャー侯爵
ウィルズ・ヒル
Wills Hill
1st Marquess of Downshire
生年月日 1718年5月30日
出生地 グレートブリテン王国グロスタシャーフェアフォード英語版
没年月日 (1793-10-07) 1793年10月7日(75歳没)
称号 初代ダウンシャー侯爵、初代ヒルズバラ伯爵、初代ヒルズバラ伯爵、第2代ヒルズバラ子爵、初代キルワーリン子爵、初代フェアフォード子爵、第2代ヒル男爵、初代ハリッジ男爵、枢密顧問官(PC)

内閣 (1)グレンヴィル内閣
(2)チャタム伯爵内閣
(3)チャタム伯爵内閣、グラフトン公爵内閣、ノース卿内閣
在任期間 (1)1763年9月9日 - 1765年7月20日
(2)1766年8月16日 - 1766年12月
(3)1768年1月20日 - 1772年8月31日

内閣 チャタム伯爵内閣、グラフトン公爵内閣、ノース卿内閣
在任期間 1768年2月27日 - 1772年8月27日

内閣 ノース卿内閣
在任期間 1779年11月24日 - 1782年3月27日

庶民院議員
選挙区 ウォリック選挙区英語版
在任期間 1741年5月 - 1756年11月17日

貴族院議員
在任期間 1756年11月17日 - 1793年10月7日
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1768年から1772年にかけて植民地大臣を務めたが、彼のアメリカ植民地に対する強硬姿勢はアメリカ植民地人の怒りを買い、アメリカ独立戦争の原因となった。

1742年に第2代ヒルズバラ子爵を継承し、1751年にはヒルズバラ伯爵、1789年にはダウンシャー侯爵に叙された。

経歴

1718年5月30日アイルランド貴族の初代ヒルズバラ子爵トレヴァー・ヒルとその妻メアリー(旧姓ロウ)の間の息子としてグロスタシャーフェアフォード英語版で生まれる[1][2]

1741年5月の総選挙でウォリック選挙区英語版から選出されて庶民院議員となる[2]1742年5月に父が死去し、生存している最年長の男子である彼が第2代ヒルズバラ子爵位を継承したが、同爵位はアイルランド貴族爵位であるため、襲爵によって自動的に貴族院議員になることはなく、襲爵後も1756年グレートブリテン貴族爵位を与えられるまで庶民院議員に在職し続けた[3]

1751年10月には直系の男系男子に次いで叔父の初代ダンガノン子爵英語版アーサー・ヒル=トレヴァーの男系男子への特別継承を規定したアイルランド貴族爵位ヒルズバラ伯爵に叙された[1][3]

1754年5月に枢密顧問官に列するとともに王室監査官英語版に就任。翌1755年には王室会計長官英語版に転じ、1756年まで務めた[2][3]

1756年11月にグレートブリテン貴族ハリッジ男爵に叙され、庶民院議員から貴族院議員に転じた[1][3]1763年9月にはジョージ・グレンヴィル内閣で第一通商卿に就任し、同内閣が崩壊した1765年7月まで在職した[1][3]1766年8月には初代チャタム伯爵ウィリアム・ピット内閣で再び第一通商卿に就任したが、同年12月に共同での郵政長官英語版に転任[3]1768年1月からは第一通商卿に復職するとともに植民地大臣に就任し、以降第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイ内閣とノース卿フレデリック・ノース内閣と三代の内閣にわたって同職に在職し続けた[1][3]。植民地大臣としてアメリカ植民地に強硬姿勢をとり、アメリカ植民地との関係を悪化させた[2]。特に1768年2月にマサチューセッツ議会が採択した各植民地一致してタウンゼンド諸法に反対しようという内容のマサチューセッツ回状を警戒し、総督フランシス・バーナードに対してマサチューセッツ議会にマサチューセッツ回状を撤回させるよう指示し、また他の総督にも植民地議会でマサチューセッツ回状を討議させないよう命令を発した。これによりマサチューセッツ回状を討議した植民地議会は次々と停会の憂き目にあった[4]。また同年6月にはボストンで関税委員が襲撃される事件があったが、彼はそれを理由に10月に正規軍四個連隊を派遣した。こうした彼の対植民地強硬姿勢がアメリカ独立戦争への機運を高めることになった[4]

1772年8月にはオハイオ開拓計画の断念に反対して植民地大臣を辞した。この退任に際してグレートブリテン貴族ヒルズバラ伯爵に叙された[2]

下野後もアメリカ植民地に対する強硬姿勢をとり続けた[2]1779年から1782年にかけてはノース卿内閣の南部国務大臣を務めた[3]

1789年にはアイルランド貴族爵位ダウンシャー侯爵に叙せられたが、1793年10月7日に死去した。爵位は生存している唯一の男子アーサー・ヒル英語版が継承した[1][3]

栄典

爵位

1742年5月3日に父トレヴァー・ヒルの死により以下の爵位を継承した[1][3]

1751年10月3日に以下の爵位を新規に叙される[1][3]

  • 初代ヒルズバラ伯爵 (1st Earl of Hillsborough)
    (勅許状によるアイルランド貴族爵位。特別継承規定で自身の男系男子が無ければ叔父初代ダンガノン子爵英語版アーサー・ヒル=トレヴァーとその男系男子が継承)
  • 初代キルワーリン子爵 (1st Viscount Kilwarlin)
    (勅許状によるアイルランド貴族爵位。特別継承規定で自身の男系男子が無ければ叔父初代ダンガノン子爵アーサー・ヒル=トレヴァーとその男系男子が継承)

1756年11月17日に以下の爵位を新規に叙される[1][3]

  • エセックス州におけるハリッジの初代ハリッジ男爵 (1st Baron Harwich, of Harwich in the County of Essex)
    (勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)

1772年8月28日に以下の爵位を新規に叙される[1][3]

  • 初代ヒルズバラ伯爵 (1st Earl of Hillsborough)
    (勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
  • 初代フェアフォード子爵 (1st Viscount Fairford)
    (勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)

1789年8月20日に以下の爵位を新規に叙される[1][3]


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Lundy, Darryl. “Wills Hill, 1st Marquess of Downshire” (英語). thepeerage.com. 2016年8月23日閲覧。
  2. ^ a b c d e f "Hill, Wills" . Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Heraldic Media Limited. “Downshire, Marquess of (I, 1789)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年8月23日閲覧。
  4. ^ a b 真嶋 2003, p. 87.


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