インダス文明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/30 05:13 UTC 版)
言語
インダス文明の言語は原ドラヴィダ語に属すると推定されている。
- 文字
- インダス文字は現在でも解明されていない。統計的分析ができる長文や、ロゼッタ・ストーンのように多言語併記の物が出土しないことが研究の大きな障壁になっている。一方で、インダス式紋章は文字ではないという説もあり、論争が続いている[13]。
- ドラヴィダ運動
- Iravatham Mahadevanは、インダス文字の分析からハラッパー語がドラヴィダ語に由来するとするドラヴィダ語仮説を提唱しているが、Shikaripura Ranganatha Raoはドラヴィダ語仮説に反対している。この対立の背景にはドラヴィダ運動の政治的な側面からの影響もあった。
宗教
信仰や儀礼のあり方が地方によって異なる面がある。モヘンジョダロ、ドーラビーラやロータルの城塞には、しばしば、「大浴場」と呼ばれるプール状の施設、水にかかわる施設があり、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた沐浴場と考えられている。
一方で、北方のパンジャブ州に近いカーリバンガンやバナーワリーのように、城塞の南区や市街地の東側の遺丘の上で、独特な「火の祭祀」を行っていたと思われる遺跡もあり、シンド州の遺跡やモヘンジョダロで見られるような再生増殖の儀礼と関係すると考えられるテラコッタ女性像やリンガムと呼ばれる石製品が出土しない。
また、南方のロータルを含むグジャラートでは、「火の祭祀」とテラコッタ女性像に象徴される再生増殖儀礼の両方の要素が見られるなどの違いが見られるため、インダス文明の構造や性格を解明する上で大きな課題となっている。
埋葬
埋葬は、地面に穴を掘って遺体を埋葬する土坑墓を用いた。長方形の土坑が多かったが、楕円形のものも造られた。遺体は、頭を北にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥伸展葬が主体であった。足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は北に置かれた。ひとつの土坑に一人が葬られるのが普通であるが、例外も見られる。副葬品は土器が一般的で、頭の上、すなわち墓坑の北側部分に10数個を集中して置くが、まれに足元、つまり南側に副葬した例がある。腕輪、足輪、首飾りなどの装身具をつけたまま埋葬された例もあり、その場合は銅製の柄鏡も出土している。重要な点として、被葬者間に際立った社会的格差が見られないという特徴があり、インダス文明の性格を示していると思われる。
行政
インダス文明には、支配者・管理者・運営者の内のいずれかが居たのではなかろうかと思われる節がある。そのことは、城塞や市街都市内部の東西南北に真っ直ぐ延びる大通りにみられる計画性、文字や印章の使用、印章に記された動物などの図柄、煉瓦の寸法や分銅にみられる度量衡の統一や土器の形や文様などにも現れている。宗教では、印章などに表現される「角神」と呼ばれる水牛の角を付けた神または神官の像や菩提樹の葉のデザインにも現れている。
排水溝設備の整った碁盤目状に街路が走る計画都市であって、ダストシュートや一種の水洗トイレなどが設けられた清潔な都市だったのではないかと推定されている。土器やビーズなどの主だった出土品に均質性が見られる。
インダス文明の都市は、信仰・宗教世界を運営・統括する人々の宗教的・政治的中枢ではなかったのではないかという説がある[14]。
注釈
- ^ ラーヴィー期の名称はラーヴィー川に由来する。
出典
- ^ ダブルー 1978, pp. 122–123.
- ^ 長田編 2013, pp. 4.
- ^ 八木ほか 2013, p. 第4章.
- ^ 長田編 2013, p. 終章.
- ^ 宮内, 奥野 2013, p. 第3章.
- ^ 長田編 2013, p. 13.
- ^ 佐原 1943, pp. 432–433.
- ^ 神谷 2003.
- ^ 近藤 2000, pp. 150–151.
- ^ 近藤 2000, pp. 152–153.
- ^ 長田編 2013, p. 405.
- ^ 小磯 2006, pp. 15–17.
- ^ 児玉 2013, p. 第9章.
- ^ 小磯 2006, p. 21.
- ^ 大田, 森 2013, p. 第11章.
- ^ ウェーバー 2013, p. 第7章.
- ^ 木村 2013, p. 第8章.
- ^ a b c 遠藤 2013, p. 第6章.
インダス文明と同じ種類の言葉
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