イロコイ劇場火災 火災

イロコイ劇場火災

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:59 UTC 版)

火災

逃げようと努めている、パニックを起こした芝居好きたち(画家の想像)
アリ(alley)の上方のはしごを登っている芝居好きたち(画家の想像)
ダン・マッカヴォイ(Dan McAvoy)Mr. Blue Beard を演じた俳優

事故当日の1903年12月30日の水曜日、イロコイでは、人気のドルリー・レーン・ミュージカル『Mr. Blue Beard』がかかっており、これは開場の夜以来毎日かかっていた。劇である伝統的な青ひげ民話のバーレスクは、ダン・マカヴォイがあおひげ役、エディ・フォイ(Eddie Foy)がシスター・アン役で特別出演し、これは彼に肉体的なコメディー・スキルを披露させる役割があった。ダンサー ボニー・マギン(Bonnie Maginn)も Imer Dasher 役で、キャストのなかにいた。開場の夜以来の入場は失望させられ、人々は悪天候、労働争議などの要因で追い払われていた。12月30日のパフォーマンスは、大入り満員札止めの聴衆をひきよせた。チケットは劇場の全席で完売した。くわえて、劇場の裏側にある「立ち見」席("standing room" areas)にもさらに数百名の観客が滞在していた。マチネーに参加する推定2,100〜2,200人の常連客の多くは子供であった。立ち見席があまりに混雑していたので、一部常連客は通路に座り、出口を塞ぐほどであった[13]

第二幕開始直後の午後3時15分頃は、男8人と女8人がダブル・オクテットのミュージカル曲『In the Pale Moonlight』を演じており、ステージは青みがかったスポットライトで照らされ、夜景を連想させていた。この際、おそらくは電気短絡の結果として、アーク灯からの火花がモスリン・カーテンに点火した。舞台係1人がキルファイアのキャニスターを火にかけようと努めたが、火災はステージ上方高くのフライ天井桟敷にすぐに広がった。そこでは、数千平方フィートの高さに可燃性の塗装されたキャンバスの背景のフラットが吊り下げられていた。舞台監督がアスベスト・ファイア・カーテンを下げようと努めたが、ひっかかって上手くいかなかった。初期の諸報告では、それはステージ上方でアクロバット師らの1人を運ぶトロリー・ワイヤーによって止められたとされた[13][14]が、のちの調査では、カーテンはプロセニアム・アーチの下に突き出たライト・リフレクターによってブロックされていたことが示された。[15]のちにカーテンの一部を試験した化学者の1人は、このカーテンは主にアスベストと混ぜられた木パルプで構成されており、「火災のときには役に立たないであろう」("of no value in a fire")、と述べた。[16]

当時ステージを続ける準備をしていたフォイは、外に走り出て、群衆をしずめようとして、まず自分の息子が舞台係の世話になっていることを確かめた。彼はのちに、「第一幕の間、外の群衆をながめたとき、これほど多くの男女子供が聴衆にいるのは初めてだと思った。天井桟敷でさえ、母親子供でいっぱいであった」("It struck me as I looked out over the crowd during the first act that I had never before seen so many women and children in the audience. Even the gallery was full of mothers and children.")[13]と述べている。フォイは火災後、ステージに残り、燃えている舞台背景の大きな瓦礫が彼の回りに落ちたときでさえ、常連客らにパニックを起こさないように促したその勇気のために、広く英雄視された。[17]

このときまでに、あらゆる層の常連客の多くが劇場から逃げようとしていた。一部は、建物北側の掛け布のかげに火災非常口が複数あるとわかっていたが、なじみのない跳ね上げ錠(bascule locks)を開けられなかった。バー・オーナーの元シカゴ・コルツの野球選手フランク・ハウスマン(Frank Houseman)は、ドアを開けるのを断った座席案内人を無視した。彼は、自宅のアイス・ボックスにも同様の錠前があったために、ドアを開けることができた。ハウスマンは、別のドアをむりやり開けたことを、ボストン・ビーンイーターズ(Boston Beaneaters)をやめたばかりであった、友人の外野手チャーリー・デクスター(Charlie Dexter)の功績に帰した。[18]第3のドアは、獣じみた力か突風かのいずれかで開いていたが、残りのドアの大部分は開けることはできなかった。一部常連客はパニックを起こし、必死に火災から逃げようとして他人を押しつぶしたり踏みつぶしたりした。[19]多数の人々が、袋小路の罠にかかったり、窓つきのドアのように見えるだけの窓にすぎないものを開けようと努めたりして、死亡した。

ステージ上のダンサーらも、バックステージと無数の楽屋のパフォーマーらとともに逃げざるを得なかった。数人のパフォーマーらと舞台係らが、建物のメイン後部出口からの脱出に協力した。その出口は非常に大きなストック両開きドア(stock double doors)から成っており、これは通常ならば、大きなフライ背景を移動させ、ピースやプロップを劇場の舞台裏にセットするのに役立つものであった。この扉が開いたとき、氷のような風が中に吹き込み、新鮮な酸素が建物内の炎に補給され、火災を実質的に成長させた[20]。多くの人が燃えている劇場から、石炭のハッチ(coal hatch)や楽屋の窓をとおって逃げ、またある人たちは西ステージのドアから逃げようとし、俳優らは半狂乱になって外に出ようとしてドアのほうへ押しすすみ、ドアが内側に開いて詰まった。偶然に、通り過ぎる鉄道員は、群衆がドアを押しているのを見て、通常持ち歩いている道具を使用して、ちょうつがいを外側からはずし、俳優らと舞台係らが逃げられるようにした。それとは別の人が、通常は背景のために使用される北側の巨大な両開きの貨物ドアを開けた途端、冷たい空気の「サイクロンみたいな突風」("a cyclonic blast")が建物内に突入し、巨大な火球(fireball)が生じた。[21]ステージ上方の通気孔は釘または針金で閉じられていたため、代わりに火球は外に向かって進み、動かないアスベストのカーテンの下に隠れたり、50フィート (15 m)先のドレス席と天井桟敷のかげの通気孔に向かって疾走したりした。熱いガスと炎がオーケストラ席の人々の頭上を通り、天井桟敷とドレス席層の、袋小路の罠にかかっている常連客らを含む、あらゆる可燃物を焼却した。

オーケストラ・セクションの人々は、ホワイエから出て正面ドアから脱出したが、ドレス席と天井桟敷で火球から逃げた人々は、ホワイエにたどり着けなかった。これは、強固な鉄の格子(公演中は、より安い席の常連客らが、より高価な下の層にこっそり下りるのを防ぐために閉鎖されていた)が階段室をふさいでいたからである。多くの観客がこの階段室のふもとに集まり、何百人もの人々が踏みつけられたり、押しつぶされたり、窒息させられたりしたため、当火災事故の中でも最大の死者数を生んだ。

北側の非常口から脱出できた常連客らは、未完成の火災避難装置に身を置いた。多くの人がこの狭い火災避難装置から跳び降り、あるいは落下して死亡した。最初に跳び降りた人々の身体が、彼らのあとに続く人々の落下を受け止めやわらげた。

劇場の北にあるノースウェスタン大学(Northwestern University)の学生らは、隙間にはしごで、それから屋上どうしの間にいくつかのボードで間に合わせの橋を架け、なんとか渡ることのできた数人を救った。

イロコイには、火災報知箱や電話(fire alarm box or telephone)はなかった。シカゴ消防署の消防車13は、燃えている劇場から一番近い消防署に走るように命じられた舞台係によって火事を知らされた。[注 2] 現場に向かう途中の午後3時33分頃、消防車13のメンバー1人が報知箱を作動させて追加のユニットを呼び出した[注 3]。到着後最初の活動は、火災避難装置に閉じ込められた人々の救助に焦点を合わせた。 カウチ・プレイス(Couch Place)として知られる、劇場の北方の路地は狭く、煙で充満していた。空中はしごは、路地や黒い網に使用することはできず、煙に隠れて、役に立たないと判った。[22]

劇場地区をパトロールしている官吏の1人が、人々が、一部は衣服が燃えながら、パニックで建物から出てくるのを発見したため、シカゴ警察署も出動した。彼はランドルフ・ストリートの交番から電話をかけ、笛で呼び出された警察はすぐに現場に集まり、交通整理を行いながら、避難を支援した。犠牲者の中には女性も多く、市に存在する30の制服女性警官隊(city's 30 uniformed police matrons)の内、一部が呼ばれた[注 4][23]


注釈

  1. ^ ステージ上方のコンクリート・アーチ。
  2. ^ 消防車13は当時、ノース・ディアボーン・ストリート209番地(209 North Dearborn Street)に置かれていた。それはその後ノース・コロンビア・ドライヴ(North Columbus Drive)に移動した。
  3. ^ これはシカゴの「電話および箱による警報」("still and box alarm")と呼ばれている。 a "still alarm" is one where the fire alarm boxes remain "still." 「電話による警報」("still alarm")は、火災警報箱がいまだなお「静かな」("still")ものである。Alarms received by telephone are considered still alarms, so the term remains in use today.電話で受けた警報は、静かな警報と見なされており、それでこの用語はこんにち用いられている。
  4. ^ 1885年から、シカゴ警察は、中年女性らに女性受刑者らとともに働かせた。市内初の「女性警察官」("policewomen")は1913年に任命された。

出典

  1. ^ This Day in History: Fire Breaks Out In Chicago Theater”. The History Channel. 2012年12月5日閲覧。
  2. ^ a b Brandt 2003, pp. 11=13.
  3. ^ Hatch 2003, pp. 7–12.
  4. ^ Hatch 2003, p. 18.
  5. ^ Hatch 2003, p. 66.
  6. ^ Hatch 2003, p. 235.
  7. ^ https://chicagology.com/skyscrapers/skyscrapers023/
  8. ^ Brandt 2003, p. 5.
  9. ^ Hatch 2003, p. 12.
  10. ^ Hatch 2003, p. 14.
  11. ^ Hatch 2003, pp. 13–14.
  12. ^ Brandt 2003, p. 31.
  13. ^ a b c “A Tragedy Remembered” (PDF). NPFA Journal (National Fire Protection Association) (July/August). (1995). http://nfpatoday.blog.nfpa.org/2011/12/today-in-fire-history-iroquois-theatre-fire.html. "Actor Eddie Foy's personal account" 
  14. ^ a b Bob Secter (2007年12月19日). “The Iroquois Theater fire”. Chicago Tribune (Chicagotribune.com). http://www.chicagotribune.com/news/politics/chi-chicagodays-iroquoisfire-story,0,6395565.story 2011年12月5日閲覧。 
  15. ^ Hatch 2003, p. 88.
  16. ^ Hatch 2003, p. 150.
  17. ^ Hatch 2003, pp. 81–87.
  18. ^ Hatch 2003, p. 129.
  19. ^ Brandt 2003, pp. 41–51.
  20. ^ a b Iroquois Theatre Fire”. Eastland Memorial Society. 2012年12月5日閲覧。
  21. ^ Brandt 2003, pp. 39–40.
  22. ^ Hatch 2003, pp. 118–119.
  23. ^ Hatch 2003, pp. 119.
  24. ^ Waldheim Jewish Cemeteries”. Graveyards.com. 2020年1月11日閲覧。
  25. ^ Five Iroquois Theater fatalities in Eger, Bloom and Reiss families”. IroquoisTheater,com. 2020年1月11日閲覧。 “All five were buried in the Waldheim Jewish Cemetery in Forest Park, Illinois.”
  26. ^ “Absolutely fireproof” –A human Tragedy”. Chicago and Cook County Cemeteries (2019年12月28日). 2020年1月11日閲覧。 “The theatre victims were buried in over a dozen of the Chicago area cemeteries including the largest cemeteries Rosehill, at least 50 to Graceland, and many to Oakwoods. Catholics went to St. Boniface, Mt. Carmel and over 40 to Calvary in Evanston. Others went to Mt. Olive, some 30 to Forest Home, many to Jewish Waldheim, Mt. Hope, Elmwood in River Grove and others. In 1908, Montrose Cemetery erected a memorial monument to the victims.”
  27. ^ Brandt 2003, p. 90.
  28. ^ Maxham, Maria (2019年12月5日). “Do you want to own a cemetery?”. Forest Park Review. 2020年1月11日閲覧。
  29. ^ Brandt 2003, pp. 36–40.
  30. ^ Brandt 2003, pp. 126–130.
  31. ^ Brandt 2003, p. xviii.
  32. ^ Brandt 2003, p. 139.
  33. ^ “Fire Inquiry Discloses: Skylights Reported Opened After the Disaster—Cannot Find the 'Asbestos' Curtain—Usher Arrested”. The New York Times. (1904年1月5日). https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1904/01/05/101383636.pdf 2011年12月5日閲覧。 
  34. ^ “What is a 'Fireproof' Screen”. Chicago Tribune. (1904年1月2日). http://hn.bigchalk.com/hnweb/hn/do/document?set=searchera 2012年12月12日閲覧。 
  35. ^ Hatch 2003, pp. 224.
  36. ^ a b Zasky, Jason. “Burning Down the House: The 1903 Iroquois Theater Fire”. Failure Magazine. 2013年3月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年10月1日閲覧。 “The Iroquois Theater advertised itself as 'absolutely fireproof,' it went up in flames six weeks after opening”
  37. ^ “Historic City Hall Plaque to be Rededicated”. WBBM-TV News (CBS Chicago.com). (2010年11月4日). http://chicago.cbslocal.com/2010/11/04/historic-city-hall-plaque-to-be-rededicated/ 2011年1月24日閲覧。 
  38. ^ Iroquois Theatre Fire Victims Remembered”. Theatre Historical Society of America (2010年11月7日). 2013年12月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月30日閲覧。
  39. ^ Our History”. Montrose Cemetery & Crematorium. 2014年3月29日閲覧。
  40. ^ Schweyer, Jenny (2008年11月5日). “Exit Devices: Von Duprin Changes the Face of Commercial Security”. Article Alley. 2009年1月13日閲覧。
  41. ^ Collinwood School Fire”. Encyclopedia of Cleveland History. Case Western Reserve University (2008年3月27日). 2011年12月5日閲覧。
  42. ^ Metz, Nina (2011年12月21日). “Best of Chicago's fringe theater scene in 2011”. Chicago Tribune. 2013年12月21日閲覧。
  43. ^ Molzahn, Laura (2011年12月21日). “2011's funniest and best-dressed Chicago shows”. WBEZ.org. 2013年12月21日閲覧。
  44. ^ Vire, Kris (2011年12月25日). “Twelve outstanding ensembles in Chicago theater”. Time Out Chicago. 2013年12月21日閲覧。





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