ジョン・シングルトン・コプリー
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 21:36 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動| ジョン・シングルトン・コプリー John Singleton Copley |
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自画像
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| 生誕 | 1738年7月3日 アメリカ合衆国,ボストン |
| 死没 | 1815年9月9日 グレートブリテン王国, ロンドン |
ジョン・シングルトン・コプリー(John Singleton Copley、1738年7月3日 - 1815年9月9日)はボストン生まれの画家である。独立前のアメリカ出身の画家として、初めて国際的な評価を受けた画家の一人である。
略歴
ボストンに生まれた。1750年頃、母親が、版画家と再婚し、義理の父親から絵を学んだ。ゴドフリー・ネラーやジョシュア・レノルズらの画集を模写して、技術を磨いた。1766年に、ロンドンの展覧会に『少年とリス』("Boy with Squirrell" )を出品して、ジョシュア・レノルズらから賞賛された。
1774年にアメリカ独立戦争が近づいて、混乱が始まる中、イギリスに渡り、しばらく後に家族も呼んでロンドンに住んだ。ロンドンでは、アメリカ出身で、すでに画家としての地位を築いていた、ベンジャミン・ウエストと親しくなった。ウエストの影響で肖像画から、歴史画に分類されるような自然と戦う人間を題材にした、『ワトソンと鮫』("Watson and the Shark"-ハバナの海でのサメの攻撃からの少年ワトソンの救助を題材にしている:1778)なども描くようになった[1]。
1799年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの会員となり、晩年は健康が衰えたが、画作を続け、ロンドンで没した。
コプリーの作品
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ヘンリー・ローレンスの肖像
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『ピアソン少佐の戦死』(ジャージーの戦い)
脚注
- ^ 中野京子『中野京子と読み解く 名画の謎 対決篇』文藝春秋、2016年、176頁。ISBN 978-4-16-390308-8。
参考文献
- "John Copley". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford University Press.
- “John Singleton Copley”. Dictionary of American Biography. American Council of Learned Societies, 1928–1936
- Lette and Papers of John Singleton Copley and Henry Pelham, 1739–1776. The Massachusetts Historical Society. (1914)
- Flexner, James Thomas (1948). John Singleton Copley. Boston: Houghton Mifflin
- Prown, Jules David (1966). John Singleton Copley in America, 1738–1774. Cambridge, Massachusetts
「John Singleton Copley」の例文・使い方・用例・文例
- John AbrahamsとTina Linがアンケートデータの収集担当で、この作業は5 月5 日までに終わるでしょう。
- 今日は、皆さんをJohn Driscoll展にご案内する予定で、この展覧会は当美術館の30周年を記念して行われているものです。
- John Smith という名の英国人だ
- そんな英語を使うと Johnson が泣く
- 限定属格の例として、『John's mother(ジョンの母親)』における『John's(ジョンの)』がある
- 『John and Mary(ジョンとメアリー)』または『John walked and Mary rode(ジョンは歩き、そして、メアリーは乗り物に乗った)』における『and』、等位接続詞である;そして、『will you go or stay?(行くか、いてもらえますか?)』における『or』もそうである
- 『who visits frequently(その人はしばしば訪れる)』は、『John, who visits frequently, is ill(しばしば訪れるジョンは病気である)』の文の関係節である
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