范増
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范 増(はん ぞう、拼音: 、紀元前277年 - 紀元前204年)は、秦末期の楚の参謀。居巣(現在の安徽省合肥市巣湖市)の人。『史記』によると項羽からは亜父(あふ、あほ[1]、父に亜ぐの意)と呼ばれ敬愛されたが、劉邦側からの権謀術数により、最終的には項羽から離れて死んだ[2][3]。
- ^ 普及版 字通『亜父』 - コトバンク
- ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』項羽本紀による
- ^ 年号は『史記』秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。
- ^ 佐竹靖彦は、范増は南方少数民族居住地域の出身であり、統治の領主的存在であったことと推測している。佐竹靖彦、『項羽』136頁
- ^ 市川宏は、范増は「現代風にいえばさしずめ政治外交軍事といった分野の学者・評論家というところであろうか」と推測しており、大きく分類するならば、蘇秦・張儀らの縦横家の同類だったといえる、としている。歴史群像シリーズ33、『項羽と劉邦 下巻 楚漢激突と“国士”韓信』156頁
- ^ 『史記索隠』によると、楚の人であり、陰陽や天文を見ることを得手としていたとされる。
- ^ 『史記正義』の引用する『虞喜志林』によると、南公は道士であり、興亡の運命を理解し、秦を滅ぼすのが必ず楚であることを知っていた」とする。また、『漢書芸文志』によると、南公の著作として、『南公十三篇』があり、六国の時の人で、陰陽家に属している。
- ^ 後9月は、顓頊暦における閏月。
- ^ 『史記』留侯世家
- ^ この時には、范増は楚の歴陽侯に就任している。
- ^ 佐竹靖彦は、「かつて戦国末期に、秦国の天下統一を阻む中心的な勢力として活動していた魏の信陵君を、秦国が諜報活動によって葬り去ろうとしたときに、秦国が投じた黄金は一万斤であった。いま、劉邦はその四倍の黄金を陳平に与えたのである」としている。佐竹靖彦、『項羽』272頁
- ^ a b 『史記』陳丞相世家
- ^ 佐竹靖彦は、この記録から「楚と死闘を演じた漢の県の長官が、正式に范増を祭っていることは、范増が地域の有力者、おそらくは昔の巣国以来の伝統を持つ豪族の出身者であったことをうかがわせる」と推測している。佐竹靖彦、『項羽』130頁
- ^ 佐竹靖彦、『項羽』270・271頁
- 1 范増とは
- 2 范増の概要
- 3 范増を題材とした作品
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