アシッド・ハウス[acid house]
アシッド・ハウス
(ACID HOUSE から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/07/27 14:54 UTC 版)
| アシッド・ハウス Acid house |
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|---|---|
| 語源 | Phutureの楽曲「Acid Tracks」から |
| 様式的起源 | ハウス |
| 文化的起源 | 1980年代半ば |
| 使用楽器 | ローランド・TB-303、ドラムマシン、ミュージックシーケンサー、シンセサイザー |
| 関連項目 | |
| セカンド・サマー・オブ・ラブ レイヴ、マッドチェスター |
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アシッド・ハウス(英: Acid house)は、ハウスミュージックのサブジャンル。1980年代半ばにアメリカ・シカゴで誕生し、ローランド製シンセサイザー「TB-303」を用いた独特なサウンドのベースラインを特徴としている。
1988年以降イギリスで一大ムーブメントとなり、後に「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれるようになる。ムーブメントはドラッグ「エクスタシー」の蔓延と野外会場での違法なパーティーの開催を伴ったことから社会問題ともなった。また、アシッド・ハウス・ムーブメントを発端にして開催されるようになった大規模なパーティーは「レイヴ」と呼称されるようになった[1]。
起源
1980年代半ば、アメリカのシカゴ(またはニューヨーク)ですでに定着していたハウスミュージックの要素に、ローランド製シンセサイザー「TB-303」特有のうねるようなサウンドと重厚なベースラインを融合させたものがアシッド・ハウスと呼ばれるようになる[2][3][4][注 1]。語源はシカゴのグループであるフューチャー(Phuture)が1987年に発表した楽曲「Acid Tracks」から[2]。フューチャー以外では、フューチャーのメンバーでもあったDJピエール、アドニス、ファーリー“ジャックマスター”ファンクらによってアシッド・ハウス調の作品が発表された[2]。当初はシカゴ限定の現象であったが、やがて大量のシングルが大西洋を渡り、イギリスに輸出される[2]。
イギリスでは、音楽プロデューサーであるベイビー・フォードが1988年に発表した「Oochy Koochy (FU Baby Yeah Yeah)」がイギリス初のアシッド・ハウスの楽曲とされている[6]。同楽曲は不協和音を奏でるアナログシンセの音色と、アンプやスピーカーの破損を警告するステッカーが貼られるほどの低いベースラインが特徴であった[6]。
ヒンディー語映画業界の音楽において実績のあったインドの音楽家であるチャランジット・シンが1982年に発表していたアルバム『Synthesizing: Ten Ragas to a Disco Beat』は、西洋のダンス・ミュージックとインド古典音楽であるラーガを融合した上でローランドのキーボード「Jupiter-8」、ドラムマシン「TR-808」、ベース・シンセサイザー「TB-303」が活用されていた[7]。2002年にオランダ人レコードコレクターのエド・ボーマンによってこのアルバムが発見され、アシッド・ハウスとの類似性およびシカゴで誕生した最初期のアシッド・ハウスの作品よりも約5年早く制作されていたことが注目を集めることとなった[7][8]。
ボーマンはムンバイにいたシンのもとを訪れ、どのようにしてアシッド・ハウスのような音楽性に至ったかを問い質したが、シンは質問の意味をわかりかねていたとボーマンは話している[7]。このアルバムは2010年にボーマンのレーベル「Bombay Connection」から再発売され、「アシッド・ハウスの最も初期の例」として知られるようになり、シンは「アシッド・ハウスの父」と称されるようになった[8]。
音楽的特徴
「TB-303」特有のうねるようなサウンドはシンセサイザーのフィルター「resonance」を上げ、「cutoff frequency」を下げることで作ることができる。さらに、「accent」「slide」「octave」といったパラメータをプログラミングすることで、ベース・パターンに変化が加えることができる[9]。
ベイビー・フォードは、アシッド・ハウスの楽曲制作について「まずフィーリングとリズムから始めて、そこからアイデアを重ねていくというものです。土台となるのはドラムマシンとシーケンサーで、アシッドトラックを作りたいなら、ローランドTB-303のようなものが理想的です」と話し、短2度やトライトーンといった不協和音の使用もアシッド・ハウスの特徴の1つであると話している[6]。
シンセサイザーはローランドの「Planet S」、ベースラインはローランドの「TB-303」をメインにローランドの「SH09」、オーバーハイムの「Xpander」、ミニモーグ、アープの「Axxe」、シーケンス・ソフトはスタインバーグの「Pro24」を使用し、これらをAtari STにMIDI接続あるいはE-MUのハードディスク搭載サンプラー「Emax SE」にサンプリングされるように接続している。ドラム・サウンドはサンプリング音源とローランドのドラムマシンTR-707、727、909を組み合わせて使用。自身の楽曲「Oochy Koochy」のドラムはすべてロンドンの海賊ラジオ局『Kiss FM』からサンプリングしたものとなっている[6]。
イギリスで起きたアシッド・ハウス・ムーヴメント
1987年 - イビサ島での体験
1987年に労働者階級出身の4人のDJであるポール・オーケンフォールド、ダニー・ランプリング、ニッキー・ホロウェイ、ジョニー・ウォーカーがイビサ島を訪れ、クラブ「アムネシア」でDJのホセ・パディーヤらが「アシッド・ハウス」なるものをプレイしている場面に遭遇し、さらにドラッグ「エクスタシー」にも遭遇する[10]。ウォーカーはこのときの体験を以下のように語っている[10]。
それはまるで宗教的な体験のようでした。エクスタシーを摂取し、美しい人々で溢れる温かい野外クラブに身を置くという組み合わせ――休暇中で気分は最高、その上、ロンドンで慣れ親しんだものとは全く異なる音楽に突然触れることになるのです。この奇妙な取り合わせは、私たちにとって完全に新鮮で新しいものであり、大きな刺激となりました。 — ジョニー・ウォーカー[10]
4人にとってイビサ島の空気感は、イギリス・サッチャー政権下の平凡で退屈な社会とは別世界のものであり、イギリスの若者のあり方とは対極にあるものであった。4人はイビサでの体験があまりに魅力的であったことから、陰鬱なロンドン南部でイビサ島の空気感を再現しようと考えるようになる[10]。
イビサ島での4人の体験は、後に「『あの4人』のイギリス人DJによる伝説的な1987年のイビサ旅行」として語り継がれることとなる[11]。
1988年 - セカンド・サマー・オブ・ラブ
レア・グルーヴやヒップホップが主流であったロンドンのクラブシーンは1988年にアシッド・ハウスによって明確に変革の時を迎えた。その中心的な役割を果たしたのがダニー・ランプリングが運営する「Shoom」とポール・オークンフォールドが運営する「Future」という2つのクラブであった[4]。
ランプリングはアシッド・ハウス・ムーブメントの始まりについて以下のように話している[4]。
よく「俺の友達は1984年にもうアシッド・ハウスをプレイしていたよ」と言う人がいますが、確かにそれ以前から存在していたレコードもありました。しかし、爆発的なブームとなり国中を席巻したのは1988年になってからのことです。私、ニッキー・ホロウェイ、ジョニー・ウォーカー、そしてポール・オークンフォールドは、その前の夏にイビサ島のクラブ「アムネシア」で強烈な衝撃を受け、大きなインスピレーションを得ました。私はイギリスに帰ってどんなものを作り上げたいかというビジョンを明確に描いていましたし、他のメンバーも同じように感じていたはずです。 — ダニー・ランプリング[4]
「Shoom」はアシッド・ハウスという音楽、ファッション、雰囲気をトータルなパッケージとして提示したロンドン初のクラブであり、アシッド・ハウスの代名詞として使用された「スマイリーフェイス」のロゴをいち早く採用したクラブでもあった[3][10]。ランプリングは「スマイリーフェイスこそが、このムーブメントの本質――満面の笑みとポジティブさ――を完璧に象徴していると感じました」と話している[4]。
「Shoom」もまたイビサ島と同様にアシッド・ハウスと「エクスタシー」が併用され、「Shoom」は多くの人々が「エクスタシー」を初めて体験した場所でもあった[3][4]。ファンマガジン「Boy's Own」を運営していたスティーヴ・ホールは、「『Shoom』のような光景はそれまで見たことがありませんでした。誰もが公然とドラッグを使っていたんです」と話している[3]。
DJのニッキー・ホロウェイは、「エクスタシー」の影響について以下のように語った[4]。
エクスタシーと音楽は一体となっていました。すべてがセットだったのです。エクスタシーを経験していない人にはその良さが本当には理解できませんでしたが、一度「E(エクスタシー)」を試すと、すぐに理解できたものです。少し悲しい話に聞こえるかもしれませんが、エクスタシーなしには、アシッド・ハウスがあれほどの爆発的な広がりを見せることはなかったでしょう。 — ニッキー・ホロウェイ[4]
オービタルのフィル・ハートノルもまた「ドラッグと音楽がセットになっていたのは間違いありません。歴史を振り返ってみても、新しい音楽は新しいドラッグと結びつくことが多いですよね?」と話している[4]。なお、イギリスで「エクスタシー」は「1971年薬物乱用法」の規定に基づき、1977年に違法となっている[10]。
同じくアシッド・ハウスに傾倒していたカール・コックスは、ランプリングからの依頼を受けて「Shoom」のイベントで2度にわたりサウンドシステムを提供した[4]。ランプリングとともに「Shoom」の運営に携わった妹のジェニーは、「Shoom」の空気感について「誰も立ち尽くして自分たちを品定めするようなことはないから、リラックスして思う存分はじけられた」と話している[10]。「Shoom」に出入りしていたエス・エクスプレスのマーク・ムーアは、「最初は本当に小さなシーンでしたが、特別な雰囲気がありました。ものすごいエネルギーに満ちていたんです」と述懐した[4]。
DJのテリー・ファーレイは、「当初、アシッド・ハウスを知っているのはごく一部の限られた人たちだけでした。最初に夢中になったのは、1986年や1987年の夏にイビサ島で働き、現地でその音楽に触れたロンドン、マンチェスター、シェフィールド出身の人たちでした」「新しい街にその波が届くたび、最初に触れた人々は、自分たちが最高の秘密を手にしているように感じた。でも、それは誰かに伝えたくてたまらなくなるような『伝道したくなる秘密』だったから、彼らは必死になって周囲に広めようとしたんだ」と話している[3][4]。
一方、BBCラジオ1のDJであるピーター・パウエルは、急速に広まっていくアシッド・ハウスについて「あれは組織化された集団ゾンビ化現象に最も近いものだ。これ以上広まるべきではないと思うね」と警鐘を鳴らしていた[3]。
アシッド・ハウスは、社会からの解放感を求めるブルーカラーやホワイトカラーの労働者がダンスフロアでその側面を捨て去る一方で、「レイヴァー」という新たなアイデンティティを徐々に築き上げた。週末ごとに集まり、ビートに合わせて踊る人々のそのコミュニティは1980年代後半のイギリス社会からは乖離していき、作家のマシュー・コリンは「レイヴァー」の異質な服装について以下のように解説している[10]。
だぶだぶのトレーナーやオーバーオール、エスニックな装飾品を身にまとい、首にはビーズのネックレスを下げ、夏の間伸ばしっぱなしにした髪をゴムで小さなポニーテールにまとめた、派手な格好の社交的な集団。80年代末のロンドンのクラブシーンにおける『MA-1フライトジャケット、ドクターマーチン、リーバイス501』という地味なユニフォームと比べれば、彼らの見た目や振る舞いは、まるで別次元から来た『異端者』のようでした。 — マシュー・コリン[10]
BBCラジオ1のDJであるファビオは、イギリス人のアシッド・ハウスへの熱狂について政治状況にも原因があったと捉え、以下のように見解を述べている[4]。
ドラッグだけの問題じゃなかった。タイミングや社会的な側面も、ドラッグと同じくらい重要だったと思います。サッチャー政権下のイギリスがどんな雰囲気だったか、今となっては思い出すのも難しいですね。多くの人が失業して退屈し、社会の動きから取り残されたような疎外感を抱いていました。多くの人が何かを、あるいは現状を打破する何かを求めていたんです。当時の状況がいかに殺風景で陰鬱なものだったか、思い出すのは難しいくらいです。 — ファビオ[4]
ロンドンに続き、イングランド北部、とりわけマンチェスターでDJたちがアシッド・ハウスのムーブメントを広めていく。マンチェスターには以前から薬物と結びついた音楽シーンがあり、1987年中にはすでにエクスタシーの使用が広がっていた。1988年に入り、マンチェスターのクラブ「ハシエンダ」ではイベント『Nude』によってアシッド・ハウスに熱中する人々が増殖していく[4]。なお、クラブではアルコールではなく水または清涼飲料水のルコゼードが主に飲まれており、「ハシエンダ」でDJを務めていた作家のデイヴ・ハスラムは以下のように述懐している[4]。
オーケンフォールドは、1988年4月にロンドン中心部で最大級のクラブ会場である「ヘヴン」でイベント『Spectrum』を開催。イギリスのポップ・チャートにもアシッド・ハウスの楽曲がランクインし、M/A/R/R/S、エス・エクスプレス、テクノトロニックといったアーティストが高い売上を記録[2]。4月30日にはエス・エクスプレスのシングル「Theme From S'Express」が全英シングルチャートで1位を獲得。ホロウェイは6月4日から毎週土曜の夜にロンドンの「アストリア」でイベント『Trip』を開始し、初日から満員の観客を集めた[4]。
アシッド・ハウス・ムーブメントは黄金時代を迎え、1988年の夏にあたるこの時期は「セカンド・サマー・オブ・ラブ」として知られるようになる[2][10][12]。
1988年 - モラル・パニック
1988年8月、プロのギャンブラーとして高収入を得ていたトニー・コルストン=ヘイターは興行としてのアシッド・ハウスを構想し、イベント「Apocalypse Now」を開催[13]。ニュース番組『News at Ten』(ITV)の取材班を招いてその様子を撮影させることで宣伝を行う。このメディア露出をきっかけに、タブロイド紙もアシッド・ハウスを取り上げるようになる[13][10]。タブロイド紙の初期の報道は好意的なものであり、『ザ・サン』は「スマイリーフェイスTシャツ」の流行を最新ファッションとして取り上げ、アシッド・ハウスそのものを「クールでグルーヴィー」と評していた[10]。
『ザ・サン』は同年10月19日付の記事から論調を一変させ、「エクスタシーの悪魔」といった見出しを掲げてアシッド・ハウスの流行と「恐ろしい薬物・エクスタシー」とを結びつけるようになる[10]。他のタブロイド紙も同様の記事を掲載し始め、『ザ・サン』は「邪悪なアシッドの元締めを撃ち殺せ」といった見出しを掲げてコルストン=ヘイターを「アシッド界の黒幕」として吊し上げ、「イギリスの若者をエクスタシーにまみれた邪悪な夜へと誘い込んだ」として非難した[13]。「エクスタシー」を使用していた若い世代は「ケミカル・ジェネレーション」と呼ばれるようになり、アシッド・ハウス・ムーブメントはモラル・パニックへと陥っていった[3][10]。
1989年、アシッド・ハウスのイベント興行は一大ビジネスへと成長していた。コルストン=ヘイターは午前3時までの営業制限があるクラブに見切りをつけ、M25モーターウェイ周辺の野外で大規模なレイブ「サンライズ(Sunrise)」を主催し、巨額の利益を上げていた。アシッド・ハウスのイベントは倉庫や野外へと舞台を移したが、これらはすべて違法行為であったことからプロモーターたちは「フォーク・デビル(社会の敵)」とみなされるようになる[10][注 3]。
1989年7月14日には「ハシエンダ」でエクスタシーに関連する初の死亡事故が起こる。錠剤を服用した16歳の女性が倒れ、その後死亡した[10]。この事故を受けて多くのイベントが閉鎖に追い込まれ、大規模なイベントも活動規模を縮小し、当局に対して健全な運営を行っていることを証明せざるを得なくなった[10]。
メディアがアシッド・ハウスやエクスタシーの危険性を報じるにつれ、このムーブメントは権威への挑戦であるとみなされるようになり、議会は新法を可決、政府は無許可パーティーの阻止を専門とする警察の特別部隊を組織し、巨額の予算を投じて弾圧を行った[3][14][10]。本来は反権威主義ではなく快楽主義のもとに発展していったムーブメントであったが、否応なしに政治的な性格を帯びることとなった[3]。
同年末にはアシッド・ハウス・ムーブメントは風前の灯火状態となっていたが、1990年に入ると違法パーティーは再びクラブへと回帰し、モラル・パニックが起きる以前の状態に戻っていた[10]。
そして1991年以降はレイヴとして大規模なイベントが再び復活するようになる[2][10]。
ランプリングはアシッド・ハウス・ムーブメントについて以下のように総括している[4]。
多くの人々の人生を永遠に変えてしまった出来事だった。あの体験の持つ力は、単にクラブに行って音楽を聴くというレベルを超えていたんだ。何百万もの人々の意識を変えた。倉庫や野原、地下室、あるいはクラブで夜を過ごしたすべての人に、深い影響を与えたんだよ。そして人々は今でもその記憶を大切に持ち続けている。それも当然のことさ。ある世代全体にとって、本当に素晴らしい体験だったんだから。当時の僕たちの考え方を、根底から覆してしまったんだ。 — ダニー・ランプリング[4]
アシッド・ハウス・ムーブメントの影響
アシッド・ハウス・ムーブメントと同時期に、イギリスのロック・シーンではアシッド・ハウスの影響を受けたムーブメントが起こり、マッドチェスターと呼ばれた[15]。ロックバンドであるプライマル・スクリームは、1991年にアシッド・ハウスの影響を受けたアルバム『スクリーマデリカ』を発表[16]。
アメリカ・日本におけるアシッド・ハウス
アメリカにおけるアシッド・ハウスは、1990年代以降カジミア(別名、グリーン・ヴェルヴェット)、アーマンド・ヴァン・ヘルデン、フェリックス・ダ・ハウスキャットといったプロデューサーたちが存続させ、発展させていった[2]。
日本では、DJ EMMAが1988年にイギリスの雑誌『i-D magazine』に触発されてイベント『ACID ZONE』を渋谷のクラブで開始し、アシッド・ハウスを模索していくようになる。DJ EMMAは2013年からアシッドハウスにフォーカスしたコンピレーション『Acid CIty』シリーズを発売[17][18]。DJ EMMAは、アシッド・ハウスについて以下のように解釈している[18]。
やっぱりPhuture(フューチャー)の登場が、僕のなかでは大きいですね。当時、「なんて音なんだ!」って思いましたよ。音が分厚過ぎて普通のハウスとも、ニューウェーブディスコとも合わせにくかった暴力的な部分もあったし、ユーモアな部分もあった。ヘラヘラ笑いながら頭殴る、みたいなことに近いのかな(笑)。なんかどう捉えていいか分からない、謎な部分がアシッドハウスの面白さなんじゃないかな…。曲はもちろん計算して作ってますが、暴走し始めるときが面白い。 — DJ EMMA[18]
批評
法学者のSteve Redheadは2002年に刊行した著書『Rave off : politics and deviance in contemporary youth culture』において、イビサ島での4人の体験を「エクスタシーで高揚し、ビートに身を委ね、ストロボライトの中で我を忘れたイビサの享楽者は、ダンス、音楽、そしてドラッグという、ディオニューソス的な快楽に満ちた、全く異質な空間を享受している」と分析し、これを「文化的アイデンティティおよび自己アイデンティティ喪失の受け入れ」と形容した[10]。
アシッド・ハウスやレイヴァーは、サッチャー率いる保守党政権によって社会的なスケープゴートに仕立て上げられたとする説もあり、アシッド・ハウスを最も激しく攻撃したメディアが保守党支持を公言していた『ザ・サン』であった。当時のイギリスが直面していた経済問題から世間の目を逸らすため、レイヴァーたちを経済問題の「結果」ではなく「原因」であるといった擦り替えに利用したとする主張もあった[10]。
カナダの社会学者であるサラ・ソーントンは、メディアが作り出した誇大宣伝そのものがネガティブな報道を招くきっかけとなったとし、サブカルチャーを標的とするメディアがその文化について誤解を招くような、あるいはセンセーショナルで否定的な見方を意図的に作り出しているという説を論じた。アシッド・ハウスおよびレイヴの事例について、「音楽メディアは『若者は禁じられたものを求める』という心理につけ込んだようだ。彼らは薬物が蔓延するパーティーや親の束縛からの解放といった話をタブロイド紙に次々と送り込み、報道を煽り立てたのである」と論じている[10]。
プロディジーのリアム・ハウレットはアシッド・ハウス・ムーブメント当時の心境について以下のように話している[4]。
昔の同級生と電車で偶然会ったとき、「アシッド・ハウスのパーティーに行かなきゃダメだよ」って言われて、1988年の夏の終わりに一つ行ってみたんだけど、あまりピンとこなかったんだ。僕はヒップホップのバックグラウンドを持っていたから、その音楽はちょっとトランス色が強すぎたというか……もっとビートの効いたものが好きだったんだよね。それに、誰かに「アレルギー体質ならエクスタシーはやめておいたほうがいい」って言われたこともあって。一体どこからそんな話が出てきたのか知らないけど、僕は花粉症だったから、それでエクスタシーを試すのをしばらくためらってしまって。それもあって、あまりハマれなかったのかもしれない。正直なところ、その翌年に爆発的に盛り上がったレイヴ・シーンのほうが自分には合っていたし、しっくりきたんだ。 — リアム・ハウレット[4]
1997年にイギリスのジャーナリストであるマシュー・コリンは著書『レイヴ・カルチャー──エクスタシー文化とアシッド・ハウスの物語』を刊行。コリンは本書でアシッド・ハウス・ムーブメントおよびレイヴ・カルチャーについて以下のように語っている[19]。
あれは「特別な時代」以上の何かだったのだろうか? ドラッグ熱に浮かされた享楽主義に過ぎなかった? それとも、我々の多くがそう強く信じたがっているように、それ以上に重要な何かだったのか? アシッド・ハウスの誕生以来、「じゃああれは一体なんだったのか」の疑問は何度もしつこく繰り返されてきたし、本書はそれに対する幅広い回答のあれこれを含んでいる。そのいずれも必然的に個人的な視点に依るものであり、どれひとつとして決定的な回答ではない。もしかしたら、今にして思えば、あのとんでもない時代を実際に生き抜いただけで充分だったのだろう。共同体の全員と共に我を忘れるあれら歓喜の瞬間の数々を味わったこと、おそらくそれ自体が、我々にはあれ以上を望めない素晴らしい体験だったのかもしれない。 — マシュー・コリン[19]
ドキュメンタリー映画
2009年にゴードン・メイソン監督によるアシッド・ハウス・ムーブメントを取り上げたドキュメンタリー映画『They Call it Acid』が世界各地の映画祭で上映され、英国インディペンデント映画賞にもノミネートされた[14][20][21][22][23][24]。同作品は制作に14年が費やされ、レイヴ・ムーブメントの誕生とイギリス政府による取り締まりに焦点が当てられている[14]。
また、カール・コックス、ラリー・ハード、デリック・メイといったアーティストへのインタビューに加え、メイソンが10年以上の歳月をかけて収集した違法パーティーや警察による手入れの映像が盛り込まれている[14]。これらの映像の大部分はアシッド・ハウスの黎明期である1980年代後半に撮影されたもの[14]。同作品は2017年に一般公開のための資金調達を開始し、トレーラーを公開した。
トレーラーにはかつて地元マンチェスターでアシッド・ハウス・ムーブメントを実体験したノエル・ギャラガーがコメンテーターとして出演し、「あれ(アシッド・ハウス・ムーヴメント)は音楽的、社会的、両面における最後の革命だったと思う。俺たち世代によるパンクへの返答だよな。当時の様子を思い出すだけで今でも鳥肌が立つよ」とコメントしている[25]。
主な作品
Ed DMXはアシッド・ハウスを「ローランド・TB-303を使用したハウス・ミュージック」と定義した上で、以下の楽曲を主要20選として挙げている[5]。
| アーティスト | 楽曲名 | 収録作品 | レーベル | 発売年 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | DJ Pierre | Box Energy | Acid Trax Vol. 2 | Trax | 1988年 |
| 2 | Sleezy D | I’ve Lost Control | - | 1986年 | |
| 3 | Armando | Confusion’s Revenge | Acid House | Jack Trax | 1988年 |
| 4 | Bam Bam | Where’s Your Child | - | Desire | |
| 5 | Charles B | Lack of Love | - | ||
| 6 | Mr Fingers | Acid Attack | - | ||
| 7 | 808 State | Flow Coma | Newbuild | Creed | |
| 8 | Coming Down Band | Slow Mo Acid | Acid Trax Vol. 3 | Needle | |
| 9 | K. Alexi | Vertigo | All for Lee Sah | Transmat | 1989年 |
| 10 | Code 3 | Code-of-Acid (Code of Acid Mix | - | International Latin House | |
| 11 | Da Posse | In the Heat of the Night (Acid Mix) | - | Future | 1988年 |
| 12 | Maurice | This is Acid | - | Trax | |
| 13 | Lidell Townsell | Jack the House | - | ||
| 14 | Mark Imperial & Co. | She Ain’t Nuthin’ But a Hoe | - | House Nation | |
| 15 | MD III | Personal Problem | Face the Nation | Underground | |
| 16 | Tyree & Rodney Baker | Video Crash | - | Rockin’ House | |
| 17 | Jaquarius | Love is Happiness (Acid Rain) | - | ||
| 18 | Fast Eddie | Acid Thunder (AA AACCID) | - | DJ International | |
| 19 | Farley Jackmaster Funk | I Need A Friend | No Vocals Necessary | House Records | |
| 20 | James Jack Rabbit | Only Wanted To Be | - | Westside |
ダニー・ランプリングは以下の11曲をアシッドハウスおよびセカンド・サマー・オブ・ラブを代表する楽曲に選出している[26]。
- Lil Louis - French Kiss
- Sueno Latino - Sueno Latino
- CeCe Rogers - Someday
- The Beloved - Sun Rising
- 808 State - Pacific State
- Frankie Knuckles - Tears
- Orbital - Chime
- Ultra Nate - It’s Over Now
- Starlight - Numero Uno
- Dionne - Come Get My Lovin'
- Illusion - Why Can't We Live Together(Love & Unity Remix)
Ninja Tune所属のユニットでクラブイベント「I Love Acid」を運営しているPosthumanは2014年にアシッド・ハウス生誕30年を記念して、以下の各年ごとの楽曲をミックスしたものをNinja Tuneのポッドキャスト「ソリッド・スティール」で公開した[27]。
| 発売年 | アーティスト | 楽曲名 | レーベル |
|---|---|---|---|
| 1984 | Chris & Cosey | Dancing Ghosts | Doublevision |
| 1985 | Knight Action | R-Trax (Special Mix) | Let’s Dance |
| 1986 | Sleezy D | I've Lost Control | Trax |
| 1987 | Phuture | Acid Tracks | |
| 1988 | 808 State | Flow Coma | Creed |
| 1989 | Gene Hunt | Living In A Land | Housetime |
| 1990 | Bobby Konders | Nervous Acid | Nu Groove |
| 1991 | UR | 303 Sunset | Underground Resistance |
| 1992 | Acid Junkies | Short On Acid | Djax-Up Beats |
| 1993 | Fred Gianelli | Eloquence | Telepathic |
| 1994 | Armando | Pleasuredome | Trax |
| 1995 | Link & E621 | Antacid | Warp |
| 1996 | Woody Mc Bride | The Birdman | Communique |
| 1997 | Ege Bam Yasi | Acid C.I.D. (Sub Version) | Subversive |
| 1998 | Plastikman | Rekall | Minus |
| 1999 | The Black Dog | Psycosyin | Warp |
| 2000 | Luke Vibert | Analord | Planet Mu |
| 2001 | Phuture | Box Energy (AFX Remix) | Rephlex |
| 2002 | Dr Derek F | Chrome Tear | Skam |
| 2003 | Luke Vibert | I Love Acid | Warp |
| 2004 | DK7 | Slipstream | Output |
| 2005 | AFX | Boxing Day | Rephlex |
| 2006 | The Doubtful Guest | Snoutful (Posthuman Remix) | Seed |
| 2007 | Syntheme | Easy | Planet Mu |
| 2008 | Mark Archer | Riser | Mutate |
| 2009 | Legowelt | Zompy Land | Crème Organization |
| 2010 | Global Goon | Craehzrhd | Balkan Vinyl |
| 2011 | Affie Yusuf | Acid Plaground | |
| 2012 | Cassegrain & Tin Man | Sear | Killekill |
| 2013 | Mark Archer | Cogzy | Anecdote |
| 2014 | Posthuman | Back To Acid | Body Work |
脚注
注釈
- ↑ なお、「TB-303」はローランドの菊本忠男によって開発された[5]。
- ↑ 1パイントは約568mlであり、缶ビールに換算すると約2本弱。
- ↑ なお、コルストン=ヘイターはその後もレイヴ・プロモーターとして活動し、政府の規制に対する反対運動を1994年の刑事司法法案(レイヴを規制する法案)が可決されるまで続けた。コルストン=ヘイターは2014年に銀行のコンピュータをハッキングしてバークレイズ銀行から130万ポンドを不正に引き出した犯罪グループの首謀者であることを認め、さらに2万4000人分の銀行カードを盗み出し、それを使ってハロッズやセルフリッジズといった高級百貨店で贅沢品を購入していたことが明らかとなった[13]。
出典
- ↑ “Visual Energy - Chapter 1 - Acid House”. hyperreal.org. 2026年7月26日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 “Acid House Music Style Overview” (英語). AllMusic. 2026年7月17日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 Bainbridge, Luke (2014年2月23日). “Acid house and the dawn of a rave new world”. The Guardian (イギリス英語). ISSN 0261-3077. 2026年7月17日閲覧.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 Bainbridge, Luke (2008年4月19日). “A second summer of love”. The Guardian (イギリス英語). ISSN 0261-3077. 2026年7月17日閲覧.
- 1 2 DMX, Ed (2014年1月22日). “The 20 best acid house records ever made” (英語). Fact Magazine. 2026年7月27日閲覧。
- 1 2 3 4 Bradwell, David (1988-12). “Acid Radical (MT Dec 1988)”. Music Technology (Dec 1988): 82–84.
- 1 2 3 Pattison, Louis (2010年4月9日). “Charanjit Singh, acid house pioneer”. The Guardian (イギリス英語). ISSN 0261-3077. 2026年7月21日閲覧.
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