鹿島城_(常陸国)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 鹿島城_(常陸国)の意味・解説 

鹿島城 (常陸国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 14:53 UTC 版)

logo
鹿島城
茨城県
鹿島城址記念碑
別名 吉岡城
城郭構造 連郭式平山城
築城主 鹿島政幹
築城年 治承年間
主な改修者 鹿島義幹
主な城主 鹿島政幹、鹿島幹重
鹿島義幹 鹿島氏
廃城年 不明
遺構 堀、土塁(わずか)
指定文化財 未指定
位置 北緯35度58分06.8秒 東経140度37分19.4秒 / 北緯35.968556度 東経140.622056度 / 35.968556; 140.622056
地図
鹿島城
テンプレートを表示

鹿島城(かしまじょう)は、茨城県鹿嶋市城山1丁目にあった中世の日本の城

概要

常陸平氏鹿島政幹が平安末期に築いた城である。それ以降鹿島氏の居城となった。本丸の跡地は現在、鹿島城山公園として市民の憩いの場になっている。二の丸跡地は茨城県立鹿島高等学校・附属中学校が立地している。 築城以来、改修や拡大をつづけてきたが、特に知られるのは鹿島義幹による大改修といわれる。 かつて鹿島城の縄張りの東端は現在の鹿島神宮二の鳥居のあたりまでであったという。現在実質的な鹿島神宮の表参道である大町通りは往時の鹿島城内であり、中世においてはここで流鏑馬がおこなわれていたという。天正年間に常陸平氏の国人領主たちが佐竹氏に虐殺されたいわゆる「南方三十三館の謀殺」後に、佐竹氏は鹿島城に兵を差し向け、これを落城させた。佐竹氏は鹿島城の跡地に陣屋を築いたという(鹿島神宮文書)。徳川幕府が成立すると、佐竹氏は国替えになり、元の鹿島氏が再興した。 現在の国道51号線茨城県道18号茨城鹿島線が交わる鹿島小学校前の交差点の付近に鹿島城の大手門があったと伝わっている。じつに国道51号線は大船津から鹿島神宮に至る道があったのでこれを圧迫する作用もあり、51号線を通す際に空堀を埋めて道路を造った。また県道18号線の鹿島城の縄張り内をとおる部分には鹿島城の堀があったという(鹿島城は二重、三重に掘があったとされる)が江戸時代にはいって「平和の時代には不要」として埋められた。

近年の状況

現在の鹿島城は本丸跡の鹿島城山公園に若干の遺構を残すのみである。大部分の遺構は様々な事象や理由によって破壊されてしまった。

交通アクセス

参考文献

  • 吉川弘文館 国史大辞典
  • 茨城城郭研究会/国書刊行会『図説 茨城の城郭』ISBN 4-336-04771-5
  • 鹿島神宮社務所『鹿島神宮文書』ISBN 4-7971-0636-0

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鹿島城_(常陸国)」の関連用語

鹿島城_(常陸国)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鹿島城_(常陸国)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの鹿島城 (常陸国) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS