雒陽武庫令とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 雒陽武庫令の意味・解説 

雒陽武庫令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/01 06:41 UTC 版)

雒陽武庫令(らくようぶこれい)は、中国の前漢時代にあった官職である。雒陽(洛陽)に置かれた兵器庫を管理した。

解説

前漢の官制を述べた『漢書』百官公卿表は、首都長安武庫令を記すが、地方制度については概略を述べるにとどまり、雒陽武庫令についての言及はない。『史記』『漢書』に雒陽武庫、あるいは雒陽に武庫があることへの言及はいくらかあるが、雒陽武庫令について記すのは元鳳4年(紀元前77年)の一か所のみである。

雒陽の武庫はきわめて重要な施設とみなされていた。景帝3年(紀元前154年)の呉楚七国の乱では、反乱側の呉の少将の桓が、雒陽の武庫を急いで確保すべきという作戦を提案したが却下され[1]、鎮圧側の周亜夫が急行して先に守りを固めた[2]

武帝は、寵愛した王夫人が死の間際に子(劉閎)を洛陽の王にして欲しいと願ったとき、「洛陽は武庫、敖倉があり、関の口にあたり、天下の咽喉である」から、直轄にして王を置かないのだ、と答え、代わりにの王にすると約束した[3]

元鳳4年(紀元前77年)には当時丞相だった田千秋の子[4]が雒陽武庫令についていた[5]。丞相の子を配置したのもその重要性にかんがみてのことだったという[6]

後漢は雒陽を首都にしたので、首都の武庫令をことさら雒陽武庫令ということはなかった。

脚注

  1. ^ 『史記』巻106、呉王濞列伝第46。岩波文庫『史記列伝』3の234頁。ちくま学芸文庫『史記』7の127頁。
  2. ^ 『史記』巻106、呉王濞列伝第46。ちくま学芸文庫『史記』7の125 - 126頁。岩波文庫『史記列伝』3の232頁。
  3. ^ 『史記』巻126、滑稽列伝第67、王夫人。ちくま学芸文庫『史記』8の174頁。
  4. ^ 田千秋の子には田順がいたが、他に子がいたか不明。
  5. ^ 『漢書』巻74、魏相丙吉伝第44。ちくま学芸文庫『漢書』6の171頁。
  6. ^ 『漢書』巻74、魏相丙吉伝第44。ちくま学芸文庫『漢書』6の172頁。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  雒陽武庫令のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「雒陽武庫令」の関連用語

1
武庫令 百科事典
14% |||||

雒陽武庫令のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



雒陽武庫令のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの雒陽武庫令 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS