陽侯令珍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 06:05 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動陽侯 令珍(やこ の れいちん/りょうちん)は、奈良時代の官人。姓は史(毘登)。但馬守・陽侯真身の子。官位は外従五位下・日向守。名は玲珍とも記される。
経歴
天平感宝元年(749年)東大寺大仏造営に際して、弟3人と共にそれぞれ銭1000貫を貢進し、従七位上から外従五位下に叙せられる。のち、淳仁朝において、漆部正や伊賀守・日向守といった地方官を歴任した。
その後、神護景雲2年(768年)一族64名が史(毘登)姓から忌寸姓に改姓した際、弟・人麻呂が一族の代表とされていることから[1]、それまでに没したか。
官歴
『続日本紀』による。
- 時期不詳:従七位上
- 天平感宝元年(749年) 5月5日:外従五位下
- 天平宝字3年(759年) 7月3日:伊賀守
- 天平宝字5年(761年) 10月1日:漆部正
- 天平宝字7年(763年) 4月14日:日向守
脚注
- ^ 『続日本紀』神護景雲2年3月9日条
参考文献
- 陽侯令珍のページへのリンク