阿衡事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 15:08 UTC 版)
詳細は「阿衡事件」を参照 宇多は即位後間もない11月21日に、基経に再び関白としての役割を果たすよう勅書を送った。しかしこの手続きの際に左大弁橘広相の起草した「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言に基経が立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠もってしまう。翌年6月になって宇多はついに折れ、勅書を取り消した上に広相を解官せざるを得なかった。寛平3年(891年)1月に基経が死去するに及んで、宇多はようやく親政を開始することができた。なお宇多が勅願寺として仁和寺を建立したのは、この阿衡事件の最中の仁和4年のことである。
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