長井坂城とは? わかりやすく解説

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長井坂城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/01 02:50 UTC 版)

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長井坂城
群馬県
城郭構造 囲郭式
築城主 不明
築城年 永禄年間(1558年 - 1670年)?
主な城主 牧弥六郎,恩田越前守,猪俣能登守範直
廃城年 1590年天正18年)
遺構 土塁など
指定文化財 群馬県指定史跡
位置 北緯36度35分8秒 東経139度3分56秒 / 北緯36.58556度 東経139.06556度 / 36.58556; 139.06556座標: 北緯36度35分8秒 東経139度3分56秒 / 北緯36.58556度 東経139.06556度 / 36.58556; 139.06556
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長井坂城(ながいざかじょう)とは、群馬県渋川市赤城町棚下・利根郡昭和村川額に存在した戦国時代の城(山城)。

概要

築城者・築城年代は不明だが、『加沢記』に永禄3年(1560年)に長尾景虎が長井坂に陣を置いて沼田城を攻め、沼田顕泰を降伏させたとあることから、この時期の築城とも考えられる[1][2]

越相同盟によって天正のはじめに北条氏の持城となったが、天正6年(1578年)に真田昌幸が沼田城を攻略したことで、北条氏と真田氏の前線となる[2]

『加沢記』『吾妻記』によると、天正8年(1580年)真田昌幸は長井坂城を包囲し、長尾憲景の家臣の城将牧弥七郎・城番須田加賀守は降伏した[1][2]。昌幸は長井坂城に恩田越前守・下沼田豊前守を置いた[2]

天正9年(1581年)に北条氏邦が長井坂城を包囲し、恩田氏らは城から逃亡したため、氏邦は猪俣能登守範直を置いた[2]

その後も真田氏・北条氏の攻防が続いたが、天正18年(1590年)の小田原城の落城に伴い白井城が落城したことで、長井坂城も降り、その後廃城となった[1][2][3]

群馬県指定史跡昭和55年9月16日指定[4])。

構造

西側を流れる利根川の断崖上に位置し、北側は永井の沢を防壁としている[1][2]。南北260メートル、東西180メートルの囲郭式[2]本丸の規模は南北80メートル、東西40メートルで、東に二の丸、さらに東に二の丸を囲む形で三の丸が作られている[1]

周辺

脚注

  1. ^ a b c d e 群馬県教育委員会 1989, p. 25.
  2. ^ a b c d e f g h 赤城村誌編纂委員会 1989, p. 1076.
  3. ^ 群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会 1959, pp. 837–838.
  4. ^ 旧赤城村地区の指定文化財”. www.city.shibukawa.lg.jp. 2024年8月1日閲覧。

参考文献

  • 群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会『群馬県勢多郡敷島村誌』群馬県勢多郡赤城村役場内群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会、1959年12月15日。 

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