鄭義 (元)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/07 09:54 UTC 版)
鄭 義(てい ぎ、? - 1232年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。河間府河間県の出身。
生涯
鄭義は太宗オゴデイ・カアンの治世に始めてモンゴル帝国に仕え、山東諸路都元帥に任じられた人物であった。その後、第二次金朝侵攻に従軍したが、1232年(壬辰)の帰徳の戦いで戦死してしまった。跡を継いだ弟の鄭徳温は1234年(甲午)の徐州攻めに加わったが、陣営が陥落したことで戦死してしまった。そこで息子の鄭沢が跡を継いで漢人世侯の史天沢に仕え、多くの出征に加わって功績を残した。鄭沢が老いると弟の鄭江に地位を譲った[1]。
脚注
- ^ 『元史』巻166列伝53鄭義伝,「鄭義、河間人也。初、事太宗、佩金符、山東諸路都元帥・兼景州軍民人匠長官。従伐金、歳壬辰、与敵戦于帰徳、死之。弟徳温襲。甲午、従攻徐州、陥陣而死。子沢襲。従万戸史天沢出征、多立戦功。年老、弟江代其職。世祖北征、賜金符、授侍衛親軍副都指揮使・判武衛軍事・兼景州軍民人匠長官」
参考文献
- 鄭義 (元)のページへのリンク